香山の11「オーバードライブⅠ」(17)
中崎が去り、雰囲気も軽くなった。
「香山さんは、いくつ」
「二十六になったが、そちらさんは」
私は甘ったるいカフェオレを飲み、唾液すら甘くなっているのを感じていた。本来はこのような飲み物は好まない。彼はまだ何も注文していなかったが、それをなんとも思っていないようだった。
「じゃあ、同い年かね」明が少し語調を強めた。私は中崎と話したときと同じ威圧を覚えた。「そうかい、同い年かい」
今度は、私は特段気に留めなかった。他人に暴力をふるう人種などそんなものだろうと思った。そして、そこまでかしこまった態度は、もしかしたら自分が望むところではないのかもしれない、とさえも考えた。同僚に横柄を見せつける自分が、長所を心得ていても好きでは無かった。私は、明と同じ態度で接することにした。
「天神の本屋にでも行ってみないか」
私はそう提案した。特に見たい本は無かったが、彼のひととなりを知る機会だと思ったからだ。しかし、今後彼に頼む仕事の内容を考えると、慎重になれば彼との接触は可能な限り避けた方がいいのは確かであった。それを上回る私の生来の好奇心の強さがあったのだ。それに、仕事仲間には、互いにある程度の信頼がなければならない。このように非合法な場合は、どちらかが口を割ったりしないようにしなければならず、大変に重要だ。彼に自分の信頼を示し、少し信頼を与えるつもりでもあった。これは、彼に道徳の精神があれば成り立つ話である。この時の私は、明との差異を軽く見積もっていた。
店を出た私達は、天神まで歩くことにした。中崎の言う通りに、私は暑さに汗をかきはじめていた。
歩く途中、昼の陽が照らす中洲川端の風俗街を通り過ぎた。そのとき、この場所に自分が抱く暗黒が映されているのを見た。私には諸悪の根源が、すぐには何か理解できなかった。自分の、水商売は身売りの化けの皮であるという観念を見落としたためであった。人の観念は、それが一つの命題であることを認識しないと、その奥に埋没する重要な命題を見落とさせる効果がある。私は、街並みから水商売を、水商売から身売りを、身売りから従業員の恥辱を連想し、水商売が表面に見せぬ人の苦痛をまじまじと想起したことを理解した。その暗黒はまがまがしいもので、太陽の光を全て吸い込み、そして不穏を私に見せつけた。だが、私は暗黒を無視した。
続いて私は、ここの同業者に関していえば顔が広くなかったことを思い出した。特に働いているとき、目新しい客引きをしたり、いないはずの警察の目を気にして店の外に出なかったためであった。すると、この場所なら監視の目がないかもしれないことを考えた。明と次に会うのは、ここがお互いに都合がいいだろう。
「明、お前は昨日暴力団に入ったそうだね」
「いいや、違う。そうではない。俺が入ったのは数カ月前だが」
私は困惑した。世間話をはじめるつもりで出した話題が、嘘だったのかと教えられ、ビルの土台をダイナマイトで爆発された気分になった。しかし、ここで私はすぐには諦めなかった。明に虚言癖があり発言に神経をとがらせなければならない、と中崎がぼやいていたことを思い出したのだ。嘘とは、現実の模倣品である。私の持つコピー商品と同じだった。顕微鏡で細かに観察すれば、必ず縫製の質の悪さといった粗悪が白日の下にさらされるのだ。彼の話を掘り下げてみれば、ぼろが出るのかもしれない、と思い、私は質問をした。
「ほう。どうしてだい」
私は、わざと自分の疑問の境界をわかりにくくした。
「それは、数カ月前に入った点についてききたいのか」
私はこの時点で疑いの感情を強めた。私は、わざと疑問の焦点をぼやかして喋ったのだ。私の質問は、どうして暴力団に入ったのか、という見方もできる質問であった。しかし、彼が注目して口にしたことは、彼の意識の集中する場所を暗示するものであった。彼にとって隠すべき事実があるのであれば、それを確実に精査したうえで嘘を作らなければならず、それはむしろ、大変に彼の意識をその事実へと傾ける。そう、繰り返すが、嘘が孕む矛盾をあぶりだすには、詳細に現れるぼろを見つければいいのだ。パズルは、ピースを無理やりにはめ込んでも完成したときに絵のぎこちなさを生み出す要因となる。そして、まだ彼が嘘をついているという証明にはならない。彼の答えをきく必要がある。彼は話しはじめた。
「そうだな」
そう言って彼は少し笑うと、修辞をもって続けた。
「悪魔のきまぐれさ」
これをきいた私が、彼が嘘をついていることを確信したかといえば、そうではない。彼には、口をつぐむだけの過去があるのかもしれなかった。だとすれば、これ以上の詮索は彼のかさぶたをめくり、彼が私に柔和な態度を示さなくなる怖れもあったし、私も中崎に似た返答をしたばかりで、どうもそれを望む気になれなかった。結局、彼の答えは何の確証も私に与えなかった。そればかりか彼の過去は、さらに謎を得た。ミロのヴィーナスが、その両腕がないからこそ美しい、というあの評価に似た思念を私は感じたのだ。
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