香山の10 「明」(16)

 博多駅の近くに位置する喫茶店にタクシーが着いた。運転手の女性が、料金を告げた。ここから私は、何が起こるのかはおおよそ分かっていた。ほとんどの関係に置かれた二人は、料金を払う役割を到着までに決めず、到着したとたんに、ここは私が、と言い始めるのだ。事実、確実に中崎は財布を取り出すつもりであった。
 彼の財布は、灰色の長いルイ・ヴィトンであった。ロレックスにルイ・ヴィトン。彼の靴を外観だけでブランドをあてることはできないが、おそらく同等の名声を持つものであると暫定するのは、過誤であるように思われる。それは背広についても同様だった。背広やネクタイ、靴といった、服飾を見抜く目が洗練されている者でなければ判別のできない範疇にあるものまで高貴な会社のものにする必要が、人にはないのだ。私達は、いざショップの中で気に入った背広を見つけても、値段を見た時にその値段の必然性がないと考えては、安価なものに鞍替えする傾きがある。一体、ブルックス・ブラザーズを選択しておきながら、クロムハーツのブレスレットを装着する人間などいるはずがないのだ。彼は、背広や靴へのこだわりが決定的に欠けている男の一人だと推測していた。私は、そういう点を鑑みては、彼が堅気から外れた人間だと考えた。彼の身に着けるものがコピー商品に見えたのは、そのせいだろう。しかし、それは私を俯瞰しても同じ結論が見出された。私は、コピー商品を多量に所持していた。
 私は、グッチの長財布を取り出して一万円札を抜き取った。無論、私はこの紙幣を出すことには抵抗があった。
「中崎さん、今日は僕がお世話になるので」
「これぐらいなんでもありませんよ。そのお金は、僕らの協力のために他のところでお使いください」
 私が下手に出たところを中崎の発言が包み込んだ。私は、もとより余裕のある生活はしていなかったので、支出への抵抗が中崎より強かった。しかし、中崎にその余裕があると考えたのは、私の傲慢さ故だろう。中崎が取り持つことになり、先に降車した。彼が下りたとき、私は自分が気づかずに緊張していたことに気づかされた。彼が暴力団員であることを認識していた私は、彼の逆鱗に触れるまいと慎重になっていたのだ。改めて見ると、彼は背広でわかりにくかったが、彼の肩幅はその屈強さを表し、大きな黒目と刈り込んだ髪が、偏見だと思いながらも怖ろしくてならなかった。やせ細った私の体では勝ち目がない。先ほどのやり取りで、自分が仮に無理やり料金を支払っていたら、と考え、結論を出さずに私は喫茶店へ急いだ。
 私は、中崎のためにドアを開けた。彼は、電話をしながら入店し、即座に指を三本立て、煙草を吸うしぐさをしてみせた。店員が席へ案内するように手を上げ、歩いていくので、私達もついていった。私は、何人が席に座るのか、完全に頭から抜け落ちていた。自分が緊張していることをまじまじと思い知り、少し動揺していた。
「お前、今から博多駅の近くのコメダに来れるか。今すぐ。タクシー代はだそう。おう、じゃあ。待たせるなよ」
 彼は明という男を早口でまくしたてた。電話を切り、私に向き直った。私は慌ててメニューを開き、彼だけが読めるよう自分とは逆向きにした。中崎が片手でメニューの向きを、お互いが読めるようにし、すぐに注文を決めてカフェオレを頼んだ。私は追従するようにカフェオレを注文した。
「この年になっても、甘いものが好きでして」
 中崎は笑ってそう私に言うのだった。彼が煙草に火をつけ、私も続こうかと思ったが、気が引けてやめておいた。
「香山さん、煙草は吸わないんですか。僕はてっきり夜の仕事の方はみんな吸うのかと。明は煙草を嫌がります。あいつの心象を気にされるのなら、遠慮せず今のうちにどうぞ」
 私は煙草を吸うことにした。カフェオレが届いても、私達はそのまま座り、ぎこちない会話をするしかなかった。いいや、思えば私ばかりがぎこちない話し方で、中崎は徹頭徹尾どすんと構えた話し方だった。その威圧に私はどこか頼りがいのある印象を受けた。
「どうして、風俗店員から殺し屋の仲介人になろうと思ったんですか」
 自分でも考えていたことだった。今の店が廃業しようが、他の店に移ることも可能だったからだ。
「意外と、給料が悪くて。法律を破ることは慣れたので、もういっそ、と」
 私は、答えなど持ち合わせていなかったが、それらしい答えを口にした。それを受けた中崎も、どこか納得しきっていない様子だったのはわかった。彼は、無視して明の話をはじめた。
「明は、僕が面倒を見ることになったのですが、先ほども言ったでしょう、気に食わん輩だと。肌でわかる、というと胡散臭いでしょうが、でも話していると、急に饒舌になって嘘をでっちあげたりする男ですよあいつは。あいつと働くのなら、覚えておいた方がいいですよ」
 入店して、二十分も経たずに明が到着し、挨拶をした。電話を受けた時にたまたま近くにいたのだという。彼は背広にやたらと長い前髪で、歩き方や立ち方の雰囲気に高校生のような青臭さがあった。肉体と服飾の不釣り合いが、どうにも奇妙な印象を与えた。私は、中崎に言われたことを思い出して煙草を消火したが、中崎は意に介せずに煙草を吸い続けた。明は中崎からタクシー代を受け取って彼の横に座り、中崎が話し始めた。
「こちらの方は、香山さん。殺し屋を探しているそうだ」
 明は、歓喜を顔に浮かべた。
「俺、結構好きですよ、そういう仕事」
 私は、彼の返答に心底驚き、恐怖した。人を傷つけ、それが好きという人間を目の前にして、私は戦慄していたのだ。きっと彼にペンチを与えたなら、彼は喜んで人を捕まえて抜歯をするタイプだ。急に私は自分の歯の所在が心配になった。
「なら、話が早い。お前、この人の下で働いてみたらどうだ。突き放すようで悪いが、昨日話した感じだと、任侠の血がお前には流れているようには思えなかった。むしろ、こういうのの方が向いているだろう」
 藪から棒に中崎が、破門を意味する提案をしたが、明は歓喜を取り下げる気配がなかった。え、いいんですか、僕、そんなの許されるんですか、などと中崎に言い、彼は了承した。すると、中崎が退店しようとテーブルに一万円札を置いて立ち上がった。そして、世話人さながらの台詞を口にして去った。
「では僕は邪魔でしょうし、あとはお二人に任せますよ。香山さん、何かあったらすぐに電話してください。明、お前とはこれでお別れだが、この人に迷惑をかけるなよ。そんなことがあれば、俺も黙ってはいないからな」
 だんだんと露わになる、語意の過激さを感じた。金の受け取りを辞退しようかと思ったが、同じことの繰り返しだと思い、私は礼を告げ、彼を見送った。私は、中崎の金に全く辞退の態度を示さない明を見逃してはいなかった。

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