『パウル・ツェラン詩文集』――第2回書原読書会ログ

課題図書:『パウル・ツェラン詩文集』(白水社)
1920年に旧ルーマニア、現ウクライナのチェルノヴィツ(チェルニウツィー)出身の詩人。ユダヤ人で、第二次世界大戦下ではナチス支配下で強制労働に従事。母語でありつつ、自らを迫害した民族の言葉でもある、ドイツ語による詩作によって戦後活躍。
この時世下で新聞にとりあげられていた、ということもありますが、主催個人にとっても非常に大切な詩人であり、ぜひより広く読まれてほしいと思い、課題として選びました。

当日配布資料

詩というものを読むにあたって・私見

 そもそも詩とはなにか。
 この問いは詩を書いている人間の中でもひっきりなしにとりあげられては、ついに靄の中へと消えていきがちなテーマである。日本のいわゆる現代詩の世界では、特にその傾向が顕著かもしれない。
 なぜ、この問いはこうも答えがたいものなのか。それは、「詩とはなにか」――この問いかけ自体が「詩」の一形態だからだ。
 言葉とは、究極的にはすべて詩と呼べる。「詩とはなにか」、この六文字とて、声に出して読めば、なんとなくリズムが現れてくる。あるいは「日本国民は正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し……」、このような法の文書とて、ある音調を伴っている。(それはこの上なく退屈な音楽なのかもしれないが)
 つまるところ音律でも、リズムでも、文字の描き方でも。言葉は常に、言葉ではない要素を含んでいる。あるいは、もとより言葉そのものが、言葉ではない要素のうわべに浮かべられた、ちぎれ雲のようなものに過ぎないとさえ言えるかもいれない。
 詩とは、強いて言えば、ちぎれ雲であることを――言葉が言葉でないことを露呈させた、言葉である。盤石たる安住の大地のように思われる言葉が、頼りない、流動の姿をあらわにする。
けれどもそれは間違いなく、すべての始まりでもある。
 言葉のない、無限の虚無のような大空に浮かぶ、ひとひらの白い光。
 そして結局のところ、この頼りない寄る辺を足掛かりとするよりほかに、私たちは言葉を始めることもできないのだろう。
 今回取り上げるパウル・ツェランは、まさに言葉も人間性も失効するような惨禍をくぐり抜けながら、尚も言葉において生き、葛藤しつづけた詩人である。その詩句は多くが晦渋であり、しかし意味を越えた何か痛切なものを、読み手へと運ぶ。
 理解は、どこまでも果てしなく、難しいだろう。けれどもこの言葉を分からないなりに、噛み含めていくこと。それ自体が、やがてひとつの新たな言葉へと結実していくことがあれば良い、と一人の言葉を扱う人間としては、願う次第である。

パウル・ツェラン略歴

 旧ルーマニア領(現在のウクライナ)ブコヴィナ地方、ユダヤ人家庭出身の詩人。第二次世界大戦下でのユダヤ人の強制労働に従事させられ、また両親を失った経歴を持つ。戦後はパリに在住し、同時代の著名人の多くとも交流。
 その詩作はすべてツェランにとっての母語であると共に、殺戮者の言語でもあるドイツ語で書かれている。一方でツェランは翻訳者としても活躍しており、英仏露、ルーマニア語、ヘブライ語等7つの言語により、43の作家・詩人の翻訳に携わってもいる。(ヴァレリー、ランボー、エセーニン、ウンガレッティ等)
 ヨーロッパ圏では20世紀最大の詩人のうちの一人としての評価が確立。ドイツ語圏で最高の栄誉とされるゲオルグ・ビューヒナー賞を受賞する一方、その前後には誹謗中傷事件にも見舞われ、また第二次世界大戦以降もつづく反ユダヤ主義風潮の影響もあり、晩年には精神障害に悩まされる。

死のフーガ

 1945年5月成立。ツェランの代表作とされる。
 1944年にソ連のプロパガンダ目的で出された小冊子『ルブリン絶滅収容所』の記述を元にしたものという考察がある。
 なお初発表はルーマニア語に翻訳されたもので、その際にタイトルは『死のタンゴ』 収容所の労働、拷問、処刑等の際にはしばしばタンゴが演奏されており、また「さあ、踊れユダヤ人ども」はナチ親衛隊が好んだフレーズだったという。
 「マルガレーテ」は『ファウスト』に登場するブロンド髪の少女で、ドイツ的な理想像。「ズラミート」は聖書の『雅歌』に登場する人物で、ソロモンの花嫁。ツェランの母はユダヤ人であると共にブロンドの髪の持ち主で、ドイツ文化を愛していたという。
 ツェランの詩では「おまえ」「あなた」などと訳される親称二人称「Du」がしばしばつよく用いられるが、この「Du」は親しい家族や友人を呼ぶ二人称であるとともに、神への呼びかけにも使われる語である。(このほかに敬称二人称「Sie」が存在する。)

当日レポート

作品について

・視覚的な詩というよりは、音の印象をつよく感じた。松浦寿輝、小笠原鳥類、蜂飼耳などの詩作品は書いて味わいたいと思ったが、ツェランは声に出して読みたい。
・むしろ映像を思い起こさせるような詩と感じた。画家・鴨居玲の作品や、シュルレアリスム的なものも想起させられた。
 ⇒視覚的というのは、詩に描かれているもの、というよりは詩の言葉そのもの、詩の見た目の方からくるものなのかもしれない?
・親しい人を突然亡くした経験がある身としては、その作品に描きだされたツェランの母へ情愛にとても共感できた。またそのような経験のなかで、能の世界に触れたことも思い起こした。能の題目は多くが亡霊絡みであり、つまりは死者との対話でもある。亡霊との対話の代わりに、詩がある。
・黒いミルクという語の不思議さ。最初はするりと読めてしまうが、繰り返されるうちに異質なものとして浮かびあがってくる。ざらざらとした、味覚に訴えるような。
・絶対不味い。
・短い詩の切れ味が良い。
・詩をあまり読まなくとも、読ませられる。『白く軽やかに』という作品の締めくくり、「海の碾臼がまわる、/氷のように澄んで、音もなく、/ぼくらの目の中で。」
・ツェランの詩を読むと、どうしてか光の印象を受けて言葉を失くしてしまう。
・『あかるい石たち』の締めくくり、「ひときわあかるい圏へ」の強烈さ。
・光の印象、とあったが、むしろツェランの詩の全般に対して“暗い”という印象を受けた。唯一、『糸の太陽たち』に希望を感じた。
 ※上の作品は発表当時、「まだ歌える歌がある、/人間の/彼方に。」という締めくくりの言葉が、むしろ人間内部の希望を否定しているのではないか?という批判を受けたという話もある。しかしこの語にとてつもない希望を見出だすこともまた可能なのだろう。
・光の印象、から原民喜の作品に感じた光も思い起こした。またオネゲルという作曲家の交響曲2番、3番。いずれも戦時の経験を有した創作者。

朗読の模様

読まれた作品:『入れ替わる鍵で』『白く軽やかに』『あかるい石たち』『糸の太陽たち』『祈りの手を断ちきれ』
・読み上げることによって、また読み方によっても、新たな印象を受ける。
・やはり詩は声に出して、読まれてこそではないか。

終了後のアンケートより

・詩を読む時は、大抵、その詩と自分のことしか意識していませんが、他者の声や、読みを通じて、自分では捉えきれてなかった言葉の感触や表情というものに、あんな短い時間だったのに、魔法のようにあっさり?気付くことができるとは驚きでした。しかし、よく考えてみれば、読書会で起きていた現象が「詩」の持つありふれた力のひとつだった気がします。
・読書会に参加した後、オネゲルの交響曲第3番「典礼風」を、久し振りに聴き直したら、この曲に込められた怒りや絶望感、そして光(恐らく、あの時代のヨーロッパを生きた人が感じていた何か)について、手に取るように深く実感して聴けるようになっていて、初めてこの曲の魂に触れることができた気がしました。

主催感想

 自分でセッティングしておいて難ですが、ツェランでこんなに盛り上がれるとは思いませんでした。もしうまくいかなかったらどうしよう、などと実は前日までかなりひやひやしていました。
 何しろ、詩です。それもシュルレアリスムの影響も受けた、翻訳詩です。
 もちろん、私個人としてはツェランの作品には、読まれるべき深みが無限のように宿っている……などと信じているわけですが、とはいえそれはあくまで、詩に比較的早くから触れていた人間の見方で。普段から詩に親しんでいるわけではない方には、どのように受け止められるのか。
 今回の参加者には、詩に親しんだことのある方も、そうでない方もいらっしゃいました。前者の方にはほかの詩であったり、画家や音楽家などの連想をあげてくださったりと、様々な面白い視点を頂くことができましたが、後者の方からも率直な、だからこそ詩を読むうえで改めて振りかえりたい、大切な視座のようなものを教えていただけたように思います。(なまじ云年も読んでいると、かえってこの言い回し格好良くない?みたいな初読のインパクトは、案外記憶の彼方にすっとんでいってしまうものです。)
 また今回は会の終わりに、朗読も行いました。参加者全員にお好きな作品を選んでいただき、それを声に出して読みましたが、それも鮮やかな時間となりました。声に出すことで、よりいっそう詩は生きるようでした。また、それぞれの読み方――早さ、抑揚のつけかた、拍を取るように読むのか、あるいは流れるように読むのか――によって、不思議と詩はその色合いを変えるようでした。その印象や手触りを、紙面に起こすのも、言葉にするのも、どうにも難しいのが非常に悔しいところです。
 率直に言って、私一人ではこのようにはツェランを味わえませんでした。黙々と、その詩語の途方もない質量に打ちのめされるばかりでした。ですが今回、長らくそのような付き合いしかできなかったツェランの作品に、ほかの表情が少しずつ見えてきたような気がしています。
 今回このような充実した読書会を行えたのは、ひとえに参加者の皆様のおかげであり、スタッフのサポートのおかげであり、そして今回は友人として、言葉を生業とする者のひとりとして同席していただいた作家・雛倉さりえさんにも大いに助けていただいたおかげでした。本当に、ありがとうございました。

 なお、雛倉さんは本読書会の感想を、noteに上げてくれました。その美しい文章が此方に掲載されていますので、ぜひご一覧ください。
https://note.com/3lie/n/ne89ca3af4f89

参考資料

飯吉光夫編・訳 『パウル・ツェラン詩文集』白水社2012年
中村朝子訳 『パウル・ツェラン全詩集』青土社2012年
相原勝 『ツェランの詩をよみほどく』みすず書房2014年
関口裕昭 『評伝パウル・ツェラン』慶応義塾大学出版会2007年
石原吉郎『石原吉郎詩文集』 講談社 2005年


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?