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木を撮る

前回、森を撮るということについて記事を書きました。

が、最近また色々と思いが浮かぶようになってきたので、文字に起こして考えを整理するためにここに残しておきたいと思います。

単純に自分の思いを書き残すだけなので、ここに書くことは誰かに意見を押し付けるわけでもなく否定するわけでもありません。

木を撮る

ここ数年ほとんどの作品の主題を"木"にしてきました。
副題はあくまで現象や主題以外の周りの木。
なぜここまで木に固執してるんだろうと自分でも疑問に思うときがあります。
山でも川でも滝でも海でも自然風景は美しいものばかりですが、何故かそそられないんです。
もちろんその旅の過程は楽しく素晴らしいものですが。
ただ、そう疑問に思って自分の作品を見返してみることにしました。
山の作品、川や滝の作品、海の作品、そして森の作品。
こうして見ていくと、森の作品だけは主題とするもの(木)から"何か"訴えかけてくるような感覚があったのです。
もちろんその場の思い入れもあるかもしれません。
しかし揺るぎないその"何か"が作品から滲み出ていました。

"何か"とは

多くの風景写真は木が副題になることが多いと思います。

主題は滝、前景に副題として木を入れている
雪が薄く積もった山肌、その周りに木が生えている
複数の木が並ぶ濃い霧の中の小川

こうして見返して見ると、雄大な風景の中にはほとんど木が写り込んでいたりする。
こういった作品で「木が主題です。」とは中々強く言えないでしょう。

話は遡ること幼少時代。
小さい頃の自分はウルトラマンの人形で遊ぶことが多かったです。
自分の手で人形を動かし、怪獣をやっつける。
この遊びの中で必ずセリフを発していました。
「お前を倒してやる!」「ガオー」などなど。
ナレーションもやっていたと思います。恥ずかしい。
何の話?と思う人もいるかもしれませんが、そういう感覚が木を固執して撮り続け、それ以外のものに惹かれないことに繋がってるんじゃないかって思ったんです。

要するに無人格のモノに対して感情を移入させること。

ウルトラマンの人形はもちろん生きていませんし、声も発しません。
しかし、自分の想像次第で痛がったり、笑ったり、全て自分の考えの中で自由自在にウルトラマンの表情や感情をコントロールしていたのです。
それが今になって木を撮る時、同じようにその木に対して感情を移入させて撮っていることに気付きました。

地吹雪が強く打ち付ける中、日の出を待ちづけた岳樺
表皮が捲れて痛々しいが
重い雪に埋もれて折れないように高い位置に枝をつける岳樺
胴体から大胆に折れ、命を終え土に還ろうとしている者。
自分の終わりゆく分身を見守る者。

人間の勝手な解釈で木自体は何も考えてはいないでしょう。解釈は人それぞれですし、何を感じるかも自由だと思います。

森という木の集団の中でそれぞれの個性を持ちながら生まれて死んでゆく。
自然界の中では圧倒的に人間らしく、面白いものだと思います。

不変な海や山にはない面白さがあってそれが自分を虜にさせるんだろうと気付きました。

撮影中に主題の中に自分が入り込んで、その相手が何を感じているのか、痛みなのか、安らぎなのか、それを感じとることでより一層作品に対しての思い入れが深くなるのだろうと思います。
こういった感情移入があるのとないとでは作品の深みはかなり変わってくるのではないでしょうか。
作品背景よりも見た目で見せる(魅せる)現代の流れでは少し古い考えなのかもしれません。

最近は森や木を撮る人が増えてきたように感じます。
しかし自分の作品に対して説明できる人はどれくらいいるんだろう。
どれくらいの人が考えて撮っているんだろう。
スクロールして数秒で過ぎていくスマホの画面だけでは伝わらない"何か"をもっと聞いてみたいなとふと思う時があります。

まだまだ自分には想像力も知識も足りませんし技術もありません。
これが完結するまでは木を撮るということからは離れないんだろうなと思います。

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