石川直樹さん「それ自体が薬」――『自分の薬をつくる』書評③
『自分の薬をつくる』を読み終わった。いつもの坂口恭平がここにいた。ときにプロデューサーになり、ときに政治家になり、ときに編集者になり、ときに僧侶や牧師のようでもある。共通するのは、ひとりひとりの相談者の核になるような部分を見出し、枠に押し込めずに自由に解き放つこと。彼は、それを薬と呼び、処方箋として個々の相談者に差し出していく。
坂口恭平が処方する薬で、自分が印象に残っているのは、曼荼羅を作ってみて、というやつだ。ジョン・カーニー、高橋優、俵万智が好きだという相談者に対して、坂口は言う。「映画とか音楽とか本とかそういうジャンルを取っ払って、ジョン・カーニー・高橋優・俵万智だけ調べてみて、ジャンルで分断させないで、すぐ人はある似た要素を集めて集合を作って、普通は他と分断させちゃうけど、あなたはそうしないで『ジョン・カーニー・高橋優・俵万智曼荼羅』を作ってみて。曼荼羅を描いてみて。映画とか音楽とかどうでもいいから。もう概念を作っちゃって。なかぐろも抜いてあなたは『ジョンカーニー高橋優俵万智曼荼羅』というのを作ってみて。それを夏休みの自由研究とかで使うようなおおきな模造紙あるでしょ、ああいう大きな紙に描いてみて」といつもの調子で畳みかける。こうして引用しているだけでも、ちょっと笑う。
曼荼羅を作れ、という指示が色々な意味で大雑把で適当すぎるのだが、一方で非常にクリティカルなことを坂口くんは言っているように思える。なんの共通点もない、好きな三人の表現者をくっつけて、そこから広がる自分の視点をマッピングさせる。そうやって、相談者の思考過程や興味の方向性を浮かび上がらせて、独自の批評性を引っ張り上げようとしている。即興の回答にしては、冴えまくっている。
本書のそこここに溢れる、なるほどと思うような言葉が心地よくて、読み終わるとちょっと幸福な気持ちになる。が、ふと冷静になって考える。
この本の中で彼は徹頭徹尾一貫したことを言っている。やりたくないことはやらない、会いたくない人には会わない、矛盾は矛盾のままにして、ときには適当になって吐きだせ、そうすればうまくいく、と。しかし、そう言われて、何人の人がはいそうですね、と納得するだろうか。やりたくないけどやらなきゃいけない、会いたくないけど会わなきゃならない、だから悩んでいる、という人が大半だろう。でも、坂口くんの手にかかると「無理でしょ」とは思わなくなる。なんだか悩んでいるのがバカらしくなって、肩の力が抜ける。突き詰めれば、むちゃくちゃ素朴なことを言われているだけなのに。
ぼくは思う。彼の言う具体的なアドバイスが薬なのではなくて、彼に相談すること自体が、すでに薬なのである。もっと言うならば、坂口くん自身が薬なのであって、彼と話すだけでいい。彼の声を聞くだけでいい。彼が続けている「いのっちの電話」というやつは、声という薬を、電話の相手に彼が延々と処方しているだけのような気がしている。
本の後半になると、他人の話を聞いているうちに相談者の悩みがすでに解決していたり、坂口くんの回答もあっさりしてくる。この本は、演劇の舞台での語りおろしからの“一筆書き”で書かれているから、後半になると単に時間切れで急ぎ始めたということもあるだろう。が、他人の相談を聞いているうちに、誰もが同じ類の悩みを抱えている、ということに気付いて、本当に自分の悩み自体が溶解していったようにも感じられる。坂口くんの言っていることが面白すぎて、言われたことを本当に実行に移す人は何人もいないと思うけれど、それでいいのである。坂口くんが処方する薬は、悩みを溶かす。自分への否定を少しずつ減らしていった末に、なくしてしまうのだ。
最後の久子さんと坂口恭平の対話も面白かった。そのままそのままそのままでいいから!と言い続けられた赤子のような坂口恭平が、徐々に光のほうへよちよちと歩き、或いは目をうっすらあけながら四つん這いでハイハイしていく感じがよく出ている。その先に、本書『自分の薬をつくる』は生まれた。
読後感は、清々しい。結局、今の自分をとことん自由に解放しろ、と言われているからだろうか。つまりは、この本自体も薬なのである。語り下ろしなので、読書というよりは、坂口恭平の声を脳内で再生しているようなものだ。立体的なラジオを聞いている感覚で読み終わって本を閉じると、なぜか素直に「坂口恭平よ、ありがとう」という気持ちになってしまう。「言うは易く、行うは難し」なんていうけれど、坂口くんは軽々と言ってのけ、軽々と実行する。やっぱりあなたは稀有な男です。
石川直樹(2020年8月3日)