見出し画像

27年ぶりの「坊ちゃん」 結局勝ったのか?負けたのか?

・はじめに

夏目漱石の代表作、「坊ちゃん」ほど多くの日本人に親しまれている文学はそうそうあるまい。私も小学校時代とりあえず読んだか。そして中3の時国語の授業で使うからと再度読んだ。このように学校で半強制的に読まされる例も多かろうから、その認知度はかなりのものだろうと思われる。
その後私は夏目漱石の本はほぼすべて読んできたが、なかなか「再読」まで手が回らず、先日約27年ぶりに「坊ちゃん」を手に取ってみたわけである。今読み直してみると「学校図書」としてはかなりレベルが高く、中3の私は細かい箇所は読み飛ばしていたことがわかる。そんな国民的文学を再読してみた所感である。

・大まかな筋

「坊ちゃん」のあらすじは良く知られているが、それでも記すとすれば、こうだ。

・無鉄砲な「坊ちゃん」はたまたま数学教師となり松山に赴任した。
・新任教師ということで生徒からプライベートを弄られたり、いたずらされたりする。
・教頭の「赤シャツ」と画学教師の「野だ」は自グループに坊ちゃんを引き入れるべく釣りに誘い、あることから敵対する「山嵐」の悪口を吹き込む。
・赤シャツはこの学校の教師である「うらなり君」の婚約者「マドンナ」を横取りし、山嵐はそれにかみついたのだった。坊ちゃんは徐々にそれがわかってきた。
・その後も赤シャツの本性がわかるにつれ、山嵐との関係を深め、赤シャツと野だを嫌うようになる。
・とうとう赤シャツはうらなりを左遷し、マドンナを手に入れた挙句芸者遊びをも止めない。送別会ではどんちゃん騒ぎを繰り広げる。
・赤シャツは山嵐を排除すべく、生徒たちに暴動を起こさせ、新聞に山嵐のせいだと書かせ山嵐に辞表を出させることに成功した。
・怒った山嵐と坊ちゃんは赤シャツと野だを待ち伏せし、卵をぶつけたり殴ったりした後松山から去った。

こんなところか。

・議論を呼ぶ 勝ち・負け

さて、「坊ちゃん」をめぐってよく議論になる点。それは「果たして坊ちゃん(と山嵐)は、勝ったのか?負けたのか?」という点だ。例えば私が先日読んだ本は新潮文庫だが、これのブックカバーには「近代小説に勧善懲悪の主題を復活させた快作である。」との文字がある。「勧善懲悪」なら坊ちゃんは「勝ち」と見ているのだ。しかし当然「負け」との見方が強いだろう(私も中3の時にそう習った。)。
勿論最終盤で山嵐と坊ちゃんは赤シャツと野だに鉄槌と生卵を食らわせたが、結局山嵐と坊ちゃんは松山から去り、赤シャツらはその中学校で幅を利かせつづける。赤シャツはマドンナと結婚し、かつ女遊びを続ける。校長の狸をはじめ事なかれ主義な教員しか残らなくなった。「完敗」と見るべきが正しかろう。
と言いたいところだが、再読してみると果たしてそう単純な問題なのか?とも言いたくなる。

それぞれの心理とその後を考えてみる。

坊ちゃんは事あるごとに「とっとと辞表を書いてやるわ!」的なことを言っている。「長いものには巻かれろ」とは真逆の坊ちゃんのこと、ぐっとこらえてこの学校に居続けたとしても、帝大卒の赤シャツがいる限りいずれメンタルヘルス(当然当時そんな概念はなかっただろうが)になるだけだ。辞表を出した後もせいせいとしており、決して「辞めたくなかったのに辞めさせられた」現代のリストラ社員ではない。鉄道技師として働き下女の清と長らく生活したというから、何だかんだで「良かった」ことになる。

山嵐はどうか。山嵐の方が「リストラ」に近い。ただし数学主任を務め、生徒からの人気も一番高かった教師である。その後も教師として生活していくに困ったとも思えない。すぐに次の就職先など見つかっただろう。そこに赤シャツみたい教頭がいなかったことを願うしかないが、とりあえずこの学校(というより赤シャツ)から離れるのは結局時間の問題だったと思われる。山嵐のことだからその赴任先で、日向の延岡(人と猿が半々に住むなどと延岡の人に怒られそうな書かれ方をしている)に飛ばされたうらなり君を呼び寄せたりしたかもしれない。

赤シャツはどうか。とりあえずマドンナと結婚。マドンナも男を見る目ゼロだが、この時代「帝大卒」というだけで威力が凄まじかった時代である。その肩書にコロッと騙されたのだろう。マドンナを嘲笑するには早い。しかし往々にしてこういう結婚生活がうまく行くはずもない。そもそもマドンナは赤シャツと性格の真反対のうらなりの許嫁だったわけである。性格が似ているならまだしも、赤シャツと末永く幸せに暮らしました、、、は想像つかない。いつの時代もこういう男は必ずどこかで「やらかす」。マドンナだけが心配である。

最後に野だはいかに。まあこういうスネ夫みたいな「要領のいい男」はしぶといかもしれない。ならば野だだけが唯一の「圧倒的勝ち組」か。しかし私の主観で申し訳ないが、とかく「面白くない」男である。野だが死ぬとき、「俺の人生つまらねえ人生だったな、なんのために産まれてきたんだ、、、」と思わなければいいが。

・最後に

こんな感じで42歳の今になって、そこそこ社会経験も家庭経験も読書体験も積んだ後懐かしい本を読んでみると、色々発見があるのは面白い。かの夏目漱石たるもの、そんな単純な文学を残すはずがなし。今度70過ぎたじいさまになってみて読んだら、また違った感想になるのだろう。次は何を「再読」しようか。思案するのもまた楽しいことである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?