見出し画像

シベリア鉄道の旅:Trans Siberian Train

Day 1: Vladivostok - Khabarovsk

列車番号001のロシア号は定刻19:10にウラジオストク駅を出発した。列車は荷物車2両、食堂車1両、ツアー用の特別車両5両を含む15両編成。モスクワまでの9529kmを6泊7日で結ぶ長旅である。

僕の乗る二等車は4人1部屋の個室で、1日目は韓国から来たツアーの教師たちと同室だった。ウラジオストクにおける抗日運動について学ぶため、訪れたという(伊藤博文の暗殺で知られる安重根は1907年にロシアに亡命し、ウラジオストクを拠点に活動していた)。日本海に沈む夕日を臨み、荷物を整理していると、まもなく宴会が開始された。焼酎2本とウォッカ半分がすぐに無くなった。モスクワまで長いから、遠慮するな、と袋いっぱいのラーメンやお菓子をくれた。さすが韓国、みんなお酒に強く、人情に厚い。

エアコン付きの車両で、揺れや騒音も少なく、また焼酎のおかげでよく眠れた。北海道のような針葉樹と湿原が混ざった森を抜けて、予定より少し早い7:50にハバロフスクに到着した。

Day 2: Khabarovsk - Belogorsk

ハバロフスクからはロシア人の家族と同室になった。言葉は通じないが日本のコンテンツは偉大で、息子のローシャ君にピカチュウのバッテリー袋をあげると気に入っていた。

シベリア鉄道の旅では、7日間も列車の中で過ごすので食料と風呂の確保が大きな課題となる。食堂車もついているが食事とビールで2-3000円ほどするとのこと。毎食は使えないので、ウラジオストクのスーパーで大量のインスタントラーメンや缶詰などを買い込んで乗車した。もちろんウォッカも。

シャワーは約600円で車掌に頼めば使えるみたいだが、幸い車両のトイレがシャワー室の機能を果たしており、お湯が出て、水量も豊富で水はけもいい。ペットボトルを使うと問題なく頭も身体も洗える。マサイマラのサファリやミンダナオと比べても全然遜色ない。

ロシアは広大で都市により標準時が異なるので、1日1時間ずつずらしながらの旅となる。不思議な感覚だが、1日25時間の贅沢な毎日を湿原の車窓、読書とウォッカで過ごすことになる。

Day 3: Belogorsk - Chita

旅も三日目に入ると食料事情にも精通してくる。その日は食堂車で朝食を取ったが、コーヒー、パンとチーズ、甘いオートミールとミルクのスープで580ルーブル(約1200円)だった。チーズは美味しかったが、オートミールは非常に甘く、コーヒーはインスタントで、コスパを考えるとおすすめできるものではい。ロシアの人たちはほとんど食堂車を使わず、停車した駅で食べ物を購入しているようで、それに倣った方が賢明かもしれない。

停車駅で買い込むローカルの食べ物はシベリア鉄道の旅の一つの醍醐味とも言える。1日2-3回、機関車の付け替えや給水のために30分ほど停車するので、その間に喫煙したり、食べ物を買うのが常となる。昨日はレーニン像が眩しいベルゴルスク駅でペリメニ(餃子)、ピロシキ、ウグイの燻製、キュウリのピクルスを調達し、今朝はアマザル駅でブルーベリーを買った。それぞれ50-100ルーブル(約1-200円)と手ごろな価格だった。

その後、ローシャ君の家族に昼食に招かれる。工兵である父親の実家のキーロフに帰省する途中という。トマトのサラダ、カツレツ、鮭の燻製と、どれも絶品である。併せて、10杯を超すウォッカをウラー(万歳)!の掛け声とともにご馳走になる。読書と勉強をしようとコンタクトレンズを入れたのに、午後から泥酔で、湿原と針葉樹が楽園に見える。これも旅の醍醐味の一つ。

Day 4: Chita - Irkutsk

夕方、チェルヌィシェフスク・ザバイカリスキーを過ぎたあたりから植生が変わり、モンゴルが近いのか、車窓に一面の草原が広がる。二日間かけて緯度を10度ほど上げたため、21:30頃まで明るい。自分の部屋は10歳くらいの女の子、マリーナと物静かな両親の家族が使っており、母親だけが別の部屋のようだったので場所を変わってあげた。新しい部屋は休暇でソチへ行くという軍人の父親と元気な女の子二人の四人家族と一緒で、各部屋の子供たちが集まり賑やかになってきた。

以下数日間の印象だが、ロシア文化についての雑感。まずウォッカについて、これはどうも日本酒のように広く愛されていないみたいである。食堂車でも販売されておらず、持ち込みも禁止されているようで、乗客は車掌から瓶を隠して飲んでいた。そういえば初日の宴会中に車掌に冗談交じりにウォッカを進めた際にはすごい剣幕でニェット!(No!)と怒られた。街でも、無業者のおじさんの飲み物だ、という人もいて、度数が強く依存症になる人が多いせいか、社会的にも諸悪の根源のように扱われているのかもしれない。

また英語に関しても、街や車内でも英語を話す人は少なく、「英語くらい話せなきゃ」という社会通念も薄いようだ。車掌も乗客も大声のロシア語でいつもまくし立ててくるし、ウラジオストクを案内してくれたアンナも英語は好きじゃないので話さない、と言っていた。これは堂々と冷戦を生き抜いた人々の、ロシアが世界の中心であるという帝国の誇りなんだと思ったりする。

今日は昼前からハイライトの一つであるバイカル湖沿いを数時間走る。シベリアの人々は、バイカルを見ない者はロシアを見たとはいえない、と自慢すると言われる。世界で最も深く、水量が多く、澄んだ湖。深い青が永遠と広がり、心が洗われる。16時前にシベリアのパリと呼ばれるイルクーツクに到着すると、早くも旅は折り返し地点となる。

Day 5: Irkutsk - Novosibirsk

イルクーツクで多くの日本人、韓国人旅行者が下車する。ここで2-3泊し、湖を楽しんでから再乗車するコースが人気のようだ。雪と氷に閉ざされる未開のシベリアは終わったみたいで、景色は広大な穀倉、酪農地帯に変わる。一面のジャガイモやトウモロコシ畑を眺めると、改めてロシアの国力の強大さが感じられる。

途中、ローシャの家族が食べ物の調達方法を教えてあげる、というのでジマ駅で一緒に下車する。売り子のおばちゃんに声を掛け、カツレツ(ハンバーグ)、ジャガイモ、きゅうりのピクルスにロシア料理定番のディルと言われるハーブが振りかけられたロシア風駅弁を購入。見た目通りの素朴な味わいで、これはご飯、焼き魚、漬物に該当する、ロシアの母親の弁当なんだと思う。

また、マリイノスク駅では淡水魚(オームリ)の天ぷら、ワッフル、松ぼっくりとビールを購入。魚の天ぷらは絶妙で、シロギスのような上品な白身で、ビールに良く合う。松ぼっくりは皮をむくと赤い実が出てきて、それを割って白い種子を食べる。ほのかに甘くて美味しい。

10年前の学生だった頃、「旅の指差し会話帳」というイラストと読み方が書かれたローカル言語の本が旅には定番だった。今回はロシア語版の購入を忘れたことをかなり後悔したが、同室の母親、ナーシャに携帯を見せられ色々聞かれているうちに、翻訳アプリが使えることに気づく。どんな国や地域に居ても細かいニュアンスまで意思疎通できるとは、テクノロジーは偉大だ。

この日は中央シベリアの二大都市、クラスノヤルスクとノボシビルスクを通る。クラスノヤルスク駅の西洋式の立派なホームに降り立つと、いよいよヨーロッパに近づいてきたなと実感する。

Day 6: Novosibirsk - Ekaterinburg

20時ちょうど頃、雨のノボシビルスク駅に到着する。ミントブルーの駅舎が壮観である。ここでナーシャの家族がソチ方面への列車に乗り換えるために下車する。新しく乗ってきたのは母親のナージャと男の子2人、ニキータとエリセイ。モスクワに転勤になった軍人の父親に会いに行くという。シベリア経済の一つの特徴なのか、軍関係の乗客が多い。

ここまで6日間、ロシア号はほぼ遅れることなく定刻で運行する。途中、交流・直流の変更のための機関車の付け替え、荷物の積み降ろし、また車両の点検や給水も主要駅で素早く行ってきた。さらにすごいのは、追い抜き施設を持つ駅が少ない東シベリアの地域では、下り線を活用し、追い抜きを行っていたこと。モスクワ方面の上り線に速度の遅い貨物列車が数列車停車し、ロシア号は下り線を借りて追い抜いていく。ロシア号が上り線に戻るまでの間、数本の下り列車は同じく列になって待機していた。正面衝突の危険性を鑑みても、中々高度なオペレーションだと感動した。

昼過ぎ、エカテリンブルグに到着すると、旅も残りちょうど24時間となる。ここまでくるとロシア号での生活が名残惜しく、このまま一生、列車の中で暮らし続けられればと思う。

Day 7: Ekaterinburg - Moscow

ノボシビルスクを過ぎると列車本数が増え、ロシア号の停車駅は半分ほどに減り、1日で5駅ほど、主要駅に停車するのみとなる。エカテリンブルグを発車後しばらくすると、アジアとヨーロッパの境界を示すウラル山脈のオベリスクを通り、これを越えると正真正銘ヨーロッパに来たことになる。

上段寝台での読書が窮屈になってきたので、気分転換に食堂車に行く。コーヒーは100ルーブル(約200円)で、粉が溶けきっておらず、だまになっているのもご愛嬌。20代前半のナージャ、キセーニャ、アローナの3人がロシアのポップ音楽を大音量でかけながら接客する。客数は少なく、いつも1-2組のビジネスマン風の男性グループが食事をしたり、ビールを飲んだりする程度である。22時頃になるとバーのような様相を呈し、酔っぱらった客のテーブルで話し相手もしてあげたりで、中々大変そう。

彼らは7日間の勤務を経て、2日モスクワで休み、また7日間勤務し、1日ウラジオストクで休む、を2か月繰り返す。その後2か月は休暇となり故郷の町に帰るという勤務体系となる。3人は仲良しで、仕事は楽しいと言う。キセーニャは、新しいドレスを買うの、とモスクワでのショッピングを心待ちにしていた。折り紙をおってくれと言うのでつの箱のマトリョーシカを作ってあげると、お礼にと小さなボトルの洋梨のスピリットをくれた。

さらに時計を2時間遅らせ、モスクワと同じ時間帯になり、深夜1:00頃にキーロフ駅に着く。ここでローシャの家族とはお別れとなる。ハバロフスクからずっと食事や宴席など何かと気にかけてくれ、ロシアの温かさに触れることができた。

朝になると車掌も乗客も静かに身支度を進め、ロシア号は14時過ぎに終点のモスクワ、ヤロスラフスキー駅に到着する。6泊7日の長旅は、思い返すと儚いひと時だった。ホームに降り立つと、乗客たちは名残惜しそうにロシア号を振り返りながら、慌ただしい大都会へと歩みを進めた。

(2017年8月)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?