見えないものの存在を知る # 『食べることと出すこと/頭木弘樹』を読んで
頭木弘樹さん著『食べることと出すこと』を読みました。
手にとるきっかけとなったのは、ライターの生湯葉シホさんと編集者の野地洋介さんの「元気が足りないラジオ」。
ゆるーいテンションのやさしいお話がとても好きなのですが、特に第5回の共食圧力のお話がとっても面白く、題材とされていたこの本を読んでみようと思いました。
さらに実は私、著者の頭木さんと同じ潰瘍性大腸炎(UC)という病気を持っています。
潰瘍性大腸炎とは、大腸の粘膜にびらんや潰瘍ができる大腸の病気です。
主な症状としては、血便、下痢、腹痛など。
現在では完治させる治療法がなく、指定難病となっています。
とはいえ、この病気は人によって炎症の範囲や程度に大きく違いがあり、ひとくちに『潰瘍性大腸炎』と言っても、病状はさまざま。
私は今のところ「左側大腸型の軽症」といったところで、人より少し大の回数が多かったり、定期的に普通じゃない色や形状のなにかを排出したりはしますが(きたなくてすみません)、
さほど厳しい食事制限はなく、症状を抑える薬を飲みながら、やわやわと生活できています。
食事制限はないとは言え、お酒は、寛解=炎症が落ち着いた状態になるまではNG。
激辛チャレンジもやめてねと言われています(やる予定は元々ないが)。
油の多いものと残渣が残りやすいものはおなかと相談。同じ病気でも、食べて大丈夫なものとダメなものは人によってかなりまちまちなので、食べてみて「あ、これだめっぽいな」というものはやめておく。
ちなみに私は一度ニラを食べた翌日、血濡れのニラがほぼそのまま出てきたので、それ以来怖くて食べていません。
・・・とにかく、程度の違いはあれど、私も食べることと出すことに不自由がある人間だということです。
著者の頭木さんはかなりの重症患者さんだったので境遇の違う面は多々ありますが、それでも自分と重なる部分があり、読んでみたいなと思った次第です。
本作、潰瘍性大腸炎になった作者さんの闘病記かと思いきや、文学作品の引用を数多く取り入れながら独自の切り口で「食べることと出すこと」について論じられていて、とても興味深かったです!
筆者の頭木さん、文学紹介者で、カフカの翻訳等をされている方なんですね。
哲学的かつ軽快な文章が面白く、どんどん読み進めてしまいました。
そして「食べることと出すこと」に支障をきたした人間には、一体何が起こるのか。
好きな食べ物を我慢しなくてはいけないとか、栄養が取れなくて痩せていくとか、トイレが近くなるとか、おなかが痛いとか。
そういうことは誰もが想像が及ぶと思います。
でもその先の、社会生活や、他者との関係への影響、それにより訪れる孤独。
こういったことは、なかなか想像し難い部分なのではないでしょうか。
著者と同じ病気を持つ身としては、読んでいて、共感と切なさの連続でした。。
たとえば、食べること=危険な行為になるということ。外から体内に異物を取り入れることは、すごく恐ろしいことだと思うようになった、というのです。
それで気が付いたのですが、私自身、UCになってから、食べ物を『成分』として見るようになったな、と思いました。
ゴボウを見たら不溶性食物繊維だ……!と思うし、カレーを前にすると脂質と香辛料……!!と思ってしまうんです。
そしていちいち、これは安全、これは危険かもしれない、と判別する癖がついたのは、病気になった弊害だなあと思います。
食べたものが、食道をとおって、胃をとおって、小腸、大腸までやってきて、お尻から出る。
文字にするとごく当たり前のことなのですが、病気になって初めて、それをリアルに実感するようになりました。
本書を読むことでそんな自分の変化に気が付き、はっとしました。
2つ目に、食を介するコミュニケーションができなくなること。
「同じ釜の飯を食う仲間」「盃を交わした仲」といった言葉のように、私たちには食によって繋がることを大切にする文化が根付いている。
一方、誰かに差し出された食べ物を拒否することは、その人自身を拒否するのと同じことになってしまう。それで、相手を怒らせてしまうことがある、と言うのです。
私自身も、こういう経験、結構あります。
たとえば、潰瘍性大腸炎になる以前からのことですが、私は、コーヒーを飲むとおなかを壊したり、気持ち悪くなったり、頭痛がしたりと、体調を崩す体質です。
ある時、仕事のミーティング時に、上司が「コーヒー飲む人!」と言ってコーヒーを淹れ始め、私以外のメンバー全員が手を挙げました。
私は「体質で、飲めないので遠慮します」といって断りました。
すると「ミルク入れれば飲めるんじゃない?」とか「ちょっとなら大丈夫でしょ」といって何とか勧めようとしてこられたんです。
結局断り切れずに頂いて、その後トイレにこもったのですが。。
あの時、どうして欲しくないと言っている私に、上司たちがコーヒーを飲ませたがったのか。ようやく謎が解けました。
こういうの、本気でコーヒーが飲めない人からしたら、切実に困ることなんですけどね。
自分には理解できない相手の事情、見えない事情がある人もいる、ということをわかってもらえたらなあと思います。
このことに関しては、潰瘍性大腸炎じゃなくても、小食な人、アレルギーがある人、会食恐怖症の人、お酒が飲めない体質の人、結構多くの人が共感する部分じゃないかと思います。
そして3つ目に、排せつの失敗は、自尊心を大きく揺るがすということ。
本書にあった、病院でトイレの失敗を見られた看護師に冷たく対応され、それをきっかけに失感情症状態になったエピソードは、特に胸が痛くて、切なかったです。
私は、昨年の冬、大雪で立ち往生し、コンビニで夜を明かした経験があります。
その時、潰瘍性大腸炎の症状があり、その日の分の薬も飲めず、さらに身体の冷えも重なって、ひどくおなかを壊してしまいました。
同じ病気の人はわかると思うのですが、そうなると、トイレに入る時間がどうしても長くなってしまいます。
でも、大渋滞のなか、車内でトイレに行くのを我慢してきた方が大勢いるので、通常よりもすぐに戸をドンドン叩かれてしまう、ということがありました。
申し訳なくて、急いで出て、またお腹が痛くなって、すぐにトイレに並ぶ。
そんなことをしていたら、恥ずかしいし、周りの人の目が冷たく感じて、その後からその場にいるのがすごく辛くなりました。
その時、『出すこと』に支障がでる病気になると、社会生活での人からの目にも悩まされることになるのか、と思いました。
子どもの頃にしたトイレの失敗って、わりとみなさん「やってしまった!」という強いインパクト、消したい過去みたいな感じで、記憶に残っていませんか?
大人になってからそんな『出すこと』がコントロールできなくなるって、想像以上に死活問題だったりするんですよね。
本書ではそういったことの苦悩がわかりやすく書かれていて、よくぞ言ってくださった、というような気持ちになりました。
このように、本書は、食べることと出すことがうまくできなくなった人の見えない事情、苦しみ、切なさが、よくわかる本になっています。
当事者としては、読んで共感することで、解ってくれる人がいた!という気持ちになり、ちょっと心が癒された気がしましたので、同じ事情を抱える人におすすめしたいです。
さらに、今までに『食べることと出すこと』について不自由を感じたことがない人にこそ、是非読んでみてほしい一冊でもあります。
そして「へえ、こんなことがあるんだなあ」程度で良いので、知ってもらえたら嬉しいなと思います。
自分が想像し難いことを追体験できることって単純に面白いので、そういった意味でも読む価値ありだと思います!
また最後に、私自身、自分には想像できないような何かを抱えている人がいるということは、忘れないようにしたいなと思いました。
見えないものを見る努力をしたいものです。
でも一方で、本書を読むと、見えないものを見ることの難しさ、というのも同時に感じてしまいます。
当事者同士にしかわからない苦しみって、どうしてもあるんだなあ、と思います。
だからまずは、完全に解り合えなくても、見えないものの存在を頭の隅にいれておく、くらいの感覚でも良いのかもしれません。
それだけで、世界はちょっと優しくなるのかもしれない、なんて、思いました。
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