便利さってなんだろう、からの考えが巡る

WALLEというpixarの映画を観た
先日知人との会話で少し話題が出て、未来、人間は宇宙船の中で椅子に乗って暮らしている描写があるって
そこに載ってれば自律した機械機能が食、睡眠、娯楽、生きる活動に必要なことを代替してくれるらしい
本編は面白かった。ウォーリーかわいい。

便利ってどういう状態だろうと考える
ウーバーイーツなどの配達事業が拡大して来たときに考えてたことで、僕は便利さというのは身体性を欠く行為なんじゃないかと思った。
食べ物配達でも例えると、自分が望む状況状態を時間空間を越えて瞬時に実現させること
自分の力以外の、何かの力を使って、それが他人であったりテクノロジーであったりが心地よい状態を提供してくれる。
極地は、感覚だけの存在になり、電気信号で仮想空間拡張現実とかよくある映画の話。
それが進化であるとも言えるし、本来の自分の自由を手放した状態と言われることもある。

生活することや暮らすこと、実家が兼業農家のこともあり、野菜や果物を収穫するために必要な器具や様々なものがあった
玄関縁側土間勝手口、昔からの知恵からの、人間が暮らすための作り、簡素といえど、物量も多ければよく分からないものもたくさんあった。
それだけ暮らしには色んなものが必要で、雑多で、混沌としてて、退っ引きならないものなんだという実感が、今振り返ればあったなと思う。
最近のミニマルな暮らしというのも、要は物を持たずに暮らせる分だけ、サービスとしての享受をどこかに依拠している状態だと思う。
それが都市生活、経済、資本横行の社会の発展のことだし、スマートシティなどの構想もある。

暮らすことは食べること、寝ること、着る物をまずはどうするか
今はお金を得ることからの間接的な獲得構造になっていて、その構造が資本主義だし文明の発展だし豊かな暮らしと言われている

価値観はどうか、それを自分の価値観として選んでいるものと、元々その中で生まれ暮らしているので、選ばされてるものとの両輪がある
洗脳されてる、という言い方もよく聞かれるけど、そもそも社会も国も概念自体は洗脳と言える部分があるだろうし、共同体を維持していく上での共通認識生活圏というのは理解した上で、生まれ育った環境や教育は価値観に直結するところ
洗脳というのをもっと功利的に考えて、自己の利益に資する目的で他者に自分の価値観を刷り込ませて行うことだとするなら、価値観とは相当自分を見つめないと本当のところは分からない

何をしていて楽しいのか、喜びは何か、嬉しいと感じることは何か。
どこに誰といて何をしているのが幸せなのか。
幸せというのは恒久的な状態のことではなく、その瞬間瞬間の精神状態のことだと思う
価値観を明確に、そこに照らして現状どうなのか、自分で選択している実感があると、不平や不満文句悪口などは少なくなってくる。
物が飽和した現代、次は心を膨らます
喧伝されるものをまずは疑う、調べる、知る、話す、最後は直感で、今は自分を知るための作業が一層必要になってきてて、考えるには書きながらの状態が都合が良いので、便利ってどういうことなんやろう、とまた一巡しては一滴ずつでも蒸留していく


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