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学校の勉強をしていない人間は、それが役に立つことにさえ気づけない


昭和の田舎の勉強観

私は熊本のやや田園地域で、農家の一族の傍系の子供として育ちました。

昭和の末期、まだまだ大学に進学をする人がそこまで多くない時代の上に、一族の中に大卒者が少なかったこともあったので、勉強をすることのプライオリティが低い環境が身近にありました。
(幸いなことに母は教育熱心であったため、家庭内ではそうでもなかったのですが)

親戚集まりなどの時には、酒が入って気が大きくなった男衆が偉そうに「勉強が出来たって社会じゃ通用しない」といった世迷言を幼少期の私にしたり顔で説教していたのを覚えています。
(そしてそんな連中が一番嫌いでした)

どうして勉強しなければならないのか

私自身は何となく勉強することの重要性を肌で感じていましたし、先述のように母がそうした空気を家庭内に作っていました。

知っていること、知識があると褒められる雰囲気が家庭の中にありました。

もちろん、人並みに勉強は嫌いでしたし、進学校で自分よりできる人間と大量に出会う経験は勉強をサボる言い訳にはしていましたが、勉強自体の価値を疑ってはいなかったように思います。

中学校でも塾に通い、進学校に進んだ私の周囲には勉強に対して好意的な人しかいなかったのです。

大学に入り塾の講師として働きだしたときに衝撃を受けたことがあります。

それは勉強をしたくないための方便と言い訳ではなく、本気で学校の勉強が役に立たないと思っている生徒の存在です。

彼らは成績が悪いため、無理やり塾に通わせられているようでした。

彼らは講師の私にこう言いました。

「先生、でも五教科の勉強がいくらできても社会じゃ役に立たないのに、どうして勉強しなければいけないんですか。」

勉強が通過儀礼

その当時、大学生の私が言葉を尽くして説明したことは覚えています。

国語は、社会は、理科は、いろいろな教科に関して持てる知識をフルに生かして話をしました。

日本語の読み書き、古典から得る教訓、教養、化学や物理の常識などを話したでしょうか。

しかしどれだけ話しても、伝わることはなかったように思います。

彼らは目先の高校入試をクリアし、お金のかからない公立の高校へ通うための通過儀礼としての勉強をしていたのでしょう。

あたかもバヌアツ共和国、ペンテコスト島の若者が紐で足を縛り高所から飛び降りるかのように、です。

最近のニュース、マイナカードと処理水

マイナカードと保険証の問題が話題になっています。

登録ミスが問題視されますが、マイナ保険証の誤登録の件数は8441件であり、マイナ保険証の発行枚数が5600万件とすると確率で言えば0.015%です。

これは交通事故に遭う確率の10分の1以下です。

福島原発の処理水に関しても、トリチウムが含まれる処理水の海洋放出が問題になっています。

この濃度は1500ベクレル/リットルと国の安全基準である60000ベクレル/リットとなり、およそ40倍に薄めたもので、細かいことを考える必要が無いレベルなのは明らかです。
(国の基準値で毎日、その濃度で約2リットル飲み続けた場合、一年間で1ミリシーベルトの被ばくとなる濃度)

これを読んでどう考え、どう行動するかは個人の自由、判断です。

しかし知らない状況よりも判断の材料は増えたはずです。

高校の勉強でさえも、役に立つ場所は多い

高校レベルの数学や化学を教科書に沿ったレベルで理解するだけでも、安心を得て、無駄なコストをかけずに生活することができます。

しかもそれらの知識は、現代の日本においてはかなり低いコストで学び直すことが可能です。

若さゆえの過ちで勉強をサボったとしても、それを取り返すことは容易にできるということです。

しかし残念ながら、勉強をしていない人にはそれがどれほど役に立つのか、そこが見えにくいことも事実です。

確かに私の幼少期、昭和の時代は勉強をし直すことは時間的にも、環境的にも難しかったでしょう。

リスキリング、リカレントが盛んな今だからこそ、学校の勉強の価値を見直すことが必要なのかもしれないと思います。

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