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授業の「ライブ感」こそ

私は授業で使用する課題のプリントなどは毎時間作成しています。

前年度と同じコースやクラス、カリキュラムであっても絶対に使いまわすことはありません。

業務効率から考えれば、データベース化して毎年使うというのが一番楽なのでしょう。

しかし、それをしたくない理由があります。

「ライブ感」を感じる授業

対面授業がオンラインの授業やオンデマンドの授業と比較して最も優れている点は「ライブ感」です。

生徒とのやり取りで授業の方向性や説明内容が変わったり、思わぬ雑談で逆に授業の内容を深掘りすることになったり、たった一度だけの生の「ライブ感」は対面授業の授業者、学習者双方にとって大きなメリットでしょう。

下手な授業なら動画授業がましだ、という意見はSNSに散見されます。

しかし、一人で動画授業を見ることに集中力が続く生徒はそれほど多くありませんし、授業内容をエピソード記憶としてその時の状況と合わせて関連付けて記憶される場合もあります。

「ライブ感」を演出する予習

そのために、授業準備段階であえて穴を残すように意識して予習をしています。

例えば、ある内容に関して説明の仕方を決めない、順番を生徒の返答次第で変えるということだけ決める、あえてしっかり問題を解かずその場で解くということだけ決めておく、などです。

これは何種類か準備して生徒の反応で変更する、ということではありません。

決めない、ということだけ決めるのです。

そうすることで、授業中に自分自身も常に考えながら進める必要があり、予定調和ではない盛り上がりを演出することができます。

何年も教員をすると内容に飽きる

毎年同じ内容を説明するために準備をすると次第に飽きてきました。

特に教科の特性上、数学は教科書内容にほとんど変化がありません。不変の真理を扱う以上仕方がない部分もあります。

残念ながら「教員という仕事は、同じ授業をしていても毎年生徒の反応が違うから飽きない」という美辞麗句に騙されるほどには人間ができていないようです。

ですから、自分でライブ感を作ることでこの「飽き」に対処するためにこの手法を取っています。

初任者などには勧められないやり方ですが、数学ならば5、6年も授業すると「飽き」対策を考える必要があるのではないかと感じています。
(この意味で、英語や国語は本文テキストを変えることができるので羨ましいと感じています)

準備不足ではないのか

これを「準備不足で、教員として不適切だ」という批判をする人もいるでしょう。

それに関して、二つの点で反論をしたいと思います。

一点目としては、そもそも授業以外の業務も抱える中で「満足できる」分量の準備をできる教員がどれほどいるのでしょうか。

授業時間は教室に時間拘束をされるわけですから、その時間を有効活用することは極めて効率的です。

二点目としては、そんなに入念に準備をされた授業がどれほどのクオリティなのでしょうか。

現在はオンラインの動画授業が有料、無料を合わせて大量に出回っています。その中には素人同然のものもありますが、有名予備校の看板講師の授業もあります。

そうした看板講師はもともとの授業スキルに加えて、多大な準備をしています。また、授業の進み方やテキストも考えつくされて用意されています。

果たして、学校の教員が寸暇を惜しんで作り上げた授業のクオリティがそれに匹敵するものでしょうか。

はっきり言いますが、99%以上の教員の授業は間違いなくそれ未満(以下ではない)です。

もしあなたの前の生徒が「先生の授業の方がわかりやすい」と言ったのならば、それは大人の配慮ができるようになったのだと生徒の成長を喜ぶべきです。

学校の教員はライブアーティスト

私は学校の教員は「ライブハウスで気軽に生演奏を聴けるアーティスト」だと考えています。

スキル的には武道館を埋め尽くす有名アーティストやN響の演奏者とは比べるべくもありません。

それを目指すのを止めはしませんが、現実的な話ではないでしょう。

しかし、その場で生の演奏が聴ける、ライブの臨場感という点では映像や音源でしか視聴できない有名アーティストに勝っています。

私たちが超一流の講師に勝る唯一の武器である、「ライブ感」を授業で生かすことが市井の教員に必要な技術であり、「アクティブラーニング」や「主体的・対話的深い学び」の本質ではないかと私は考えています。


こういった、現実受け入れ系の諦め意見は教員クラスターでの受けが悪いようですが…

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