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トイレ掃除まで学校で教える違和感と「便教会」の薄気味悪さ


「便教会」という団体

トイレ掃除を素手ですることに教育効果を見出す人たちがいます。

トイレ掃除を素手で2時間することで学校教育の問題を解決しようという団体、「便教会」についての記事です。

この「便教会」は、腰を落とし目線を低くして、信念を持ってトイレ掃除を行うことで、多くの問題を抱える教育現場を変えるという目的のもと活動を実践しているそうです。

発起人であり元高校教諭の高野修滋氏の言葉が記事内にあったので引用します。

「気持ちは、目にしているものと似てくるもの。汚いものを見ていれば荒んでくる。みんなが使うトイレを掃除するのは、誰かのため、思いやりというところなので、それを子どもに教えられたらと思っている。けっして強制的にやらせてはいない」

奉仕や思いやりの精神を伝えることができるという主張のようです。

トイレ掃除の教育効果

まずトイレ掃除に教育効果があるのか、ということを考える必要があります。

トイレ掃除をすることで高野氏の言う力を育てることができる可能性は十分に存在します。

しかし、それは果たして「トイレ掃除」でなければ養うことができないものなのでしょうか。

少なくともここに書いてある「思いやり」や「誰かのため」という気持ちはトイレ掃除でなければ身につかない能力ではないでしょう。

つまりトイレ掃除である必然性は無い、ということです。

もちろんこの活動を行っている高野氏の原体験や考え方を否定するものではありませんし、この方の感動は事実でしょうがそれをトイレ掃除という特定の行動に限定する必要はないのです。

衛生面からの問題点

そもそも素手でトイレ掃除をすることは衛生面からの不安が残ります。

この記事によると、コロナ禍以前は素手でしていたが今は手袋をしているということです。

しかし不特定多数の利用するトイレの掃除を子供に、しかもかなりの長時間にわたって強制するということは、公教育において一律に行うべきことではないように感じます。

正直なところ、私はしたくないですし、クラスの生徒にもさせようとは思えません。自分の子供にもさせたくはないでしょう。

トイレ掃除は家庭で教えるべきこと

こうした疑問の声に対して反対の意見として上がるのが「トイレ掃除のような仕事を覚える機会を失うのではないか」というものです。

そもそもトイレ掃除のような家事労働に関しては第一義で考えれば家庭が担うべき教育であって、学校が教えるべきことではありません。

現在の学校における掃除は清掃業者を雇う費用的な問題と掃除を通して清掃の重要性や強調性を学ぶことの両面を理由として行われています。

もちろん、掃除をすることは人間が社会生活を営む上で必要なスキルですし、他者との協同作業も重要な学びになるのは理解できます。

しかし学びが主目的ならば「清掃」という教科なり家庭科の中で指導時間をしっかりと確保すべきであって、毎日の清掃を子供を無賃労働の代替手段として用いるべきではないでしょう。

掃除やマナー、躾に類する教育はあくまでも家庭教育の範疇であり、責任は家庭に存在します。その責任を学校に押し付けるべきではないでしょう。

カルト的な気味の悪さ

正直なところ「便教会」なるこの活動に対して、私はカルト的な気味の悪さを感じずにはいられません。

彼らの言い分にも理があることは認めますし、彼らがそうした活動をすること自体は否定しません。

しかし少なくとも私には理解が難しい価値観ですし、苦痛や苦労を精神力が鍛えられるとして、無条件で受け入れたり、理不尽を許容するどころか礼賛することに対して私は距離を置きたいと考えています。

この活動が現代の学校においてどの程度受け入れられるのか、興味深く見守っていきたいと思います。

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