「写真を撮ること」は私にどんな変化をもたらしたか。
写真を撮るようになって3か月
カメラを買ってからまる2か月、写真を撮りだして3か月少し経ったことで巷でよく言われる変化を私自身も感じるようになりました。
それは歩いているときなどに観察をするようになった、ということです。
これまでは街歩きをしていても漫然と景色を眺めていることが多かった、むしろ常にそうだったように感じます。
しかしカメラを買って写真を撮るようになってから、景色を画角で切り取る習慣ができました。
そのため、何かを見たときにその物や人、風景がどれぐらいまでを切り取れるかを常に頭の片隅で意識しているようです。
それに加えて起こった大きな変化は、視覚情報に対して感動を覚えやすくなったということです。
私の撮影スタイルと面白いもの探し
私は街歩きなどのときに気になった場所や物を撮影するようにしています。いわゆるフォトウォーク的なことをしています。
出発時点で一応はレンズを複数準備していますが、基本的には一本のレンズ、それも単焦点をはめっぱなしで撮影します。
そのため切り取る映像と画角には大きく制限が発生します。ズームレンズならば遠くの被写体を拡大して撮影することができますが、単焦点レンズの場合は対象に近づいていくか、諦めるかの二択しかありません。
また画角が限られることから必然的に撮影できる対象も制限されます。必然的に撮影できるものを探す習慣がつきます。
その結果、花や植物、放置された廃棄物などをよく観察するようになりました。それらに対して驚きや面白さを持って見ることができるようになるなど感受性が高まったように感じます。
「私」が感動した例
まずは植物です。これは我が家の庭に植えているトキワマンサクの花です。
これまでは正直、そこまで興味がなかったのですが、雨上がりに雫が滴り落ちる様子がきれいでシャッターを切ってしまいました。
次は駐車したときにブロックの中に自生していたホトケノザです。
狭いところに無理やり生えている様子が面白くて写真に収めました。ところどころ苔が生えていたり、ブロックの砂粒のゴツゴツした質感も気に入っています。
正直なところ、こうした植物に関心を寄せることがなかった私としてはここまででも大きな変化と言えます。
次は「物」の写真です。
これは歩いているときに朽ちた店舗横に放置されていた家具類に哀愁を感じて収めた一枚です。椅子のベロアの質感やひっくり返った錆びた足がなんとも寂しい気持ちになります。
次は子供が絵の具遊びをしていたときの様子の一枚です。
水入れの中の水、上に塗られた絵の具の対比がなんとも面白く感じたのでカメラを持ち出しました。
次の写真は自宅近くの神社を訪れた際に撮った注連縄(しめなわ)です。
寺社仏閣は写真に撮りたくなるような不思議な魅力のあるオブジェクトが多いように感じるようになりました。
これは別の神社ですが、年季が入って良い色合いになった賽銭箱です。ちょうど注連縄の一部が画角に入って面白い写真になったように思っています。
共感されなくとも良い
これらはすべて「私」が感動し、面白いと思った物を写真に撮ったものです。もしかすると、いや恐らくは多くの人は共感できないでしょう。
それはそれで構いません。誰のためでもなく、自分のために始めた趣味です。私はこれらを面白いと感じたし、少なくともこれまでよりもそうしたことを感じる瞬間が増えたように思います。
中高年になり、感情の動きが鈍くなった今の「私」は間違いなく写真を撮ることが感受性に影響を与えているようです。
もし、ここ最近感動を忘れているな、という中高年の方にはおすすめできる趣味かもしれません。(それに加えて撮り歩くと運動にもなるのです)
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