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【題未定】中等教育の本質は自身の限界という知的挫折を知ることにあるのかもしれない【エッセイ】

 「七五三」という言葉がある。当然ながら子供の節句の話ではない。ここでの「七五三」は学校の授業についていけている、と答える小中高の生徒の割合だという。小学校ですら7割、中学では半数、高校になると三分の一しかついていけてないということだ。高校現場での指導者側から見ると「五三一」ぐらいに感じるときもあるが、どうにも語呂が悪いのが難点だ。

 この話においては日本人の自己評価の低さ、謙遜の前提を踏まえる必要もあるだろう。日本人の多くは英語が話せない、分からないと自称するが、彼らは日常のあいさつや注文程度は十分に可能だ。旅行で案内のパンフレットなどもある程度読める人は多い。一方で外国人の場合、自称日本語を話せる人の語彙がゲイシャ、フジヤマ、ハラキリ、といったレベルのことも少なくない。この辺りは文化的な差異が大きいという点を割り引いて考える必要もあるだろう。

 とはいえ高校生の大半が授業についていけていない、という自己評価をしていることは間違いないだろう。では、高校教育で授業についていける生徒が3割という状態を見て問題と考えるかどうかだ。この手の話をするときに出るのがインテリ達の「無能は進学するな」論である。彼らからすれば授業についていけない生徒はそもそも進学すべきではない、となるだろう。しかし私の個人的な考えはそれと全く異なる。

 結論を先に言えば、全く問題ない、むしろそうであるべき、というのが持論だ。こう考える理由の根本にあるのは、高等学校における教育の根本には「無知の知」的な要素があると考えているからだ。

 基本的に高等学校で履修する内容は国民全員が理解すべき内容でもなければ、全員が理解できるようなレベルでもないことを忘れてはいけない。例えば数学の場合、日本の高校では三角関数やベクトル、微積分を普通に扱う。これは国によっては高等教育に分類されるものでかなり高度な範囲になっており、全員が理解できるものではそもそもないのだ。したがって理解できなくても仕方がないものを学んでいるのである。むしろ多くの生徒にとっては理解できないという挫折を経験することが高校教育の目的ですらあるだろう。

 この事は上級学校の入試にも表れている。高校入試では全教科同配点であるのに対し、大学入試ではある程度教科が絞られ、かつ配点に差がつけられている。適性を探すと言えば響きは良いが、要は出来ないことを諦めるということでもある。高校教育は得意でないことにおいては理解できないことが存在することを理解する場、と言えるかもしれない。
(大学教育は得意であることでさえも理解できないことが存在することを理解する場、と言えるだろう)

 こうした知的挫折、できないことの存在を理解すること、理解できる人が存在するという事実に向き合うことこそが現代における教養の基盤であり、国民国家におけるもっとも重要な態度の獲得だと個人的には考えている。間接民主制、高度化した科学文明においては世の中のことを個人が全て見通すことは不可能である。その社会においては日々の生活をするだけでも必然的に自分以外の誰かの知恵や知見を借りることになるだろう。自分よりも優れた人間の存在を前提とする態度の基礎が中等教育における挫折が生み育てると言えるのではないだろうか。

 もちろん現代の教育がこうした態度を育てるに十分に機能しているかと言われるとそれもまた疑問だ。高校全入時代を迎えた現代においてはハードルを課されず、挫折を経験しないままに高等学校を卒業するケースも少なくない。この知的挫折を経験せずに社会に出た若者はあたかも社会の全てが見えているかのように振舞ってしまうだろう。かといって高いハードルを課せば逆にドロップアウトする可能性もあり一概に解決案が出る問題ではない。

 とはいえ、知的挫折とも言うべきこの経験をすることは高校教育の可視化されていない大きな価値である。だからこそ可能な限り多くの国民が高校教育を受けるべきだと思うのだ。

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