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神社コスプレ? 落合陽一の計算機自然神社と信仰の深淵


落合陽一、神主になる

落合陽一氏が神社を建てるということが話題になっています。

彼の意図するところは以下のようにあります。

計算機自然神社の創建は、日本における神々の起源が自然崇拝にあるという前提に基づいています。
(中略)
さらに、デジタル技術、芸術、そして神仏習合の思想を融合させることで、伝統的な信仰と現代のテクノロジーが交錯し、新しい精神性や文化的表現を創出する試みとして、計算機自然神社が創建されました。これは、計算機自然を通じて自然を敬う新たな形であり、自然崇拝の現代的再解釈でもあります。

要はデジタル技術、芸術などの新たな世界の創出がまさに「神」の存在であるとアニミズム的解釈を行い神社を創建したということのようです。この創建にかかる動機自体は十分に理解できます。菓子味噌の神様までいるぐらいですから、計算機の神様がいてもよいでしょう。

ヌルの神様

この計算機自然神社が祭る祭神が「ヌルの神様」と落合氏が称する神です。

ヌルの神様とは?
ヌルの神様は、「ヌル(Null)」という概念を神格化した存在です。ヌルは計算機科学において「存在しない」や「未定義」を意味し、仏教の「空(くう)」の概念とも深く関連しています。つまり、「存在しないことが存在する」というパラドックスを体現しています。
『古事記』において、天地開闢の際に「存在」の神々が誕生しますが、それと同様に「存在しない」神もまた存在し得ると考えることができます。ヌルの神様は、具体的な形や属性を持たないがゆえに、無限の可能性を内包する根源的な存在として位置づけられています。存在しないこと自体が、新たな創造や思考の出発点となり得るのです。

それなりの理屈は通っていますし、こうした神の存在を感じることは誰しも否定できないでしょう。論理性や根拠を組み立てて創建していることは間違いないようです。

しかしこの一連の流れに違和感、気持ち悪さを感じるのは私だけでしょうか。正直な話、どうにもこの落合氏の一連の行動は浅薄で取って付けた感を感じずにはいられないのです。

祭神の問題

日本の神社信仰、神道が自然崇拝をもとにしたものであるというのは事実です。しかしそれは原始神道においての話です。宗教施設としての社、神社という形式がつくられ、1500年ほどの歴史の中で神道の存在は極めて政治的、世俗的な因習と信仰が結びついていきます。

その結果ほとんどの神社において、祭神は既存の神と習合が図られています。例えば菅原道真公です。道真公は「天満大自在天」と呼ばれていますが、これは雷神信仰と重なって習合され一体化したものです。

要は信仰というのは既存の信仰に上書き、ないしは組み込まれることで新たな信仰が生まれるのです。今回のように新しい神を作りました、呼びました、というだけでは人心からの信仰を受けるとは到底思えないのです。

神への「畏れ」が信仰を生む

信仰は神への「畏れ」が生み出すものです。先の道真公の場合、藤原氏が道真公に対して手ひどい仕打ちをし、恨みを持たれているという「恐れ」が根本にあります。それが「畏れ」となり、それを鎮める、怨霊慰撫から神社に封じ込めるというのがその信仰の原型です。

道真公を祭る天満宮、天神社は全国で1万2000社にもなると言われています。帝でもないのにあれほどの信仰を受けているのは、それほどに道真公は藤原氏や朝廷の関係者から「畏れ」られていたからでしょう。

今回の「ヌルの神様」にはそうした「畏れ」が希薄です。確かに自然崇拝的な不存在への畏敬は否定しませんが、それを社に祭るか、といえばそこまでの気持ちは起こらないのではないでしょうか。少なくとも神社という形式での信仰には至らないでしょう。

正直な話、今回の落合神社は落合氏の熱心な信者が聖地として巡礼するというケースは考えられても、既存の神道や神社の枠組みに入り込むような類のものではないのではないでしょうか。だからこそ、私にはこの落合氏の一連の行動が神社コスプレにしか見えないのです。

モノ言わぬIT技術者を祭るという選択

今回の計算機自然神社に関して、本当にITの神を祭り信仰を集めるようにしたいのであれば、人々が罪悪感を感じているような実在の人物を信仰の対象、祭神とするという考えもあるでしょう。

昨今において、その条件を満たす人物といえば、例えば故金子勇氏などが考えられるのではないでしょうか。

金子氏はWinny事件で有名ですが、7年をかけて裁判を争い、無罪判決を勝ち取りますが2年も経たないうちに亡くなりました。金子氏の失った時間や得られていた名声、技術革新の機会の喪失を考えれば、政府行政が金子氏に対して行ったことへの罪悪感から「神」として祭ることも十分に可能性のある人物ではないかと思うのです。

彼は旧2ちゃんねる上で裁判費用を一千数百万円もカンパされるなど、存命中からある種の信仰を集めていた人物です。反体制の旗手、不遇な生涯、道半ばでの死去、彼ならば没後、神として祭られたとしても不思議ではないでしょう。

モノではなく人を「畏れる」

残念ながら現代において、そして近代以降の時代において単純な自然崇拝やアニミズムのみで人間が信仰をするということは不可能です。

言葉も技術も無い時代ならともかく、自然現象の理屈や仕組みが理解されている時代において単純な自然崇拝が市民権を持つことはないでしょう。

人間はモノではなく、人を「畏れる」のです。

こうした本質を踏まえない限り、落合氏の神社は単なるパフォーマンスに留まり、神社の持つ重厚な意味を超えることはないのではないでしょうか。

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