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学校に行かないことで偉業を成し遂げた人たちは一部の例外であることを強調すべき


学校に行かないという選択

近年不登校生徒の数が増大しています。

これ自体は時代の流れで仕方ない部分があるでしょう。

いまだに根強い画一的な教育観の学校に対して、比較的リベラルな価値観の家庭の間において不適応を起こすことは必然かもしれません。

当然ながら私の価値観としても、学校に行かないという選択を批判する意図は全くありません。

ところがこうした行かない選択が許容されるようになると、行かないこと自体を過大評価する人たちが表れます。

この記事はそうした例の典型のような文章かもしれません。

偉人を引き合いに出す無意味さ

この記事ではエジソン、アインシュタイン、ピカソといった人類史上にその名を遺す偉人たちを引き合いに出して、不登校でも成功を収めた例として挙げられています。

しかし、こうした偉人たちは現代における不登校の主な要因とはまた異なる理由が存在します。

それは彼らの突出した能力が教育機関という装置に対して不適合を起こしたということです。

もちろん彼らが抱えた問題の中には現代の若者に共通するものが無かったわけではないでしょう。しかし、それが主因ではないし、不登校だから偉業を成したわけではありません。

あくまでもその能力がゆえに周囲との間に齟齬が発生したに過ぎない、ということです。

したがって多くの生徒にとって、彼らの不登校を肯定するための根拠としては全く意味がありません。

大半の生徒は周囲との人間関係に問題を抱えたり、学校文化に違和感を抱いたりして不登校になるケースがほとんどであり、歴史に残る偉人とは異なる状況がほとんどだからです。

不登校を持ち上げる胡散臭さ

昨今は不登校をやたらに持ち上げる言説がSNSを中心として見られるように思います。

先の事例にもあるように、能力が高い、付和雷同していないといった美辞麗句で称賛する意識高いアカウントは決して少なくありません。

そうした人々にもてはやされていたのが「ゆたぼん」です。

彼は父親の教育方針の下、意識だけ高い無責任なSNSの住人達に持ち上げられてしまった代表的な存在です。

しかしその彼も中学生になって変化が見られたようです。

繰り返しになりますが、私は決して不登校を否定したり、学校に行きたくとも行けない人に説教をしたいわけではありません。

学校に行くも行かないもその生徒の身体や心理状態によってその是非は変化しますし、学校に行かないという選択を否定しません。

しかし、学校に行っている生徒は無思考である、行かない生徒こそが思考力や批判的精神にあふれているという主張が異なる、と考えているのです。

そうした考え方は、学校へ行かないことが優れた能力の証拠であるような誤ったメッセージを発することになり、不登校をに悩む生徒を能力的な期待を押し付け、むしろ苦しめることにすらなりかねないのではないでしょうか。

選択の一つとして受け入れる

不登校は誰にでも起こり得る現象であり、現代の教育環境や社会情勢においては必然的事象でしかありません。

不登校の生徒は不登校である、という状況だけで優れているわけでもなく、劣っているわけでもないのです。

選択の一つとして受け入れつつ、冷静に受け止める必要が教員にも、親にも、そして社会全体にも求められているのではないでしょうか。


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