「自由には責任が伴う」わけがない
新学期の時期となりました。
この時期になると、新年度のHRなどで教育観などを開陳する教員の方も多いのではないでしょうか。
その中でよく聞くフレーズで、かつ個人的に賛同しかねるものがあります。
それが「自由には責任が伴う」という言葉です。
言葉の出典
この言葉の出どころはどうやらフロイトのようです。
この自由と責任の説教は私が中高生のときから嫌というほど耳にしてきました。
そして、教員となった今もこの言葉を深く考えずに口にする教員は多いようです。
しかし、本当に自由と責任はセットの関係でしょうか。
自由とは何か
ここでの自由とは「自由権」のことだとしても問題はないでしょう。
そこで、自由権について考えてみます。
自由権とは日本国憲法の中で規定した基本的人権の一つであり、最も根源的な権利です。
人間は何物にも強制されず、自由に選択をすることができる、という権利です。
そして、これを制限する可能性があるのは唯一、他者の自由権と衝突をしたとき=公共の福祉に反するときのみ、とされています。
つまり、他者の権利を侵害することが無い限りにおいて、すべての行為や行動は自由であるということです。
責任は関連するのか
自由権の文言の中に「責任」という用語は当然出てきません。
自由と責任がセットならば、不自由と無責任もまたセットということになります。
しかし、現実には違います。
自由、不自由によらず人間は自分の行動に責任を保つ必要があります。
それは社会道徳、あるいは法律上の問題であり、当人が自由かどうかではありません。
相手の自由を制限するために使う言葉
「自由には責任が伴う」という言葉を発する人の真意は、相手の自由を制限することにあるように思います。
「責任が発生するよ、困るよね、だったら自由なんて捨てて言うことを聞きなさい」
こういう意図が見え隠れしています。
自由の応酬
制服を着ない自由を行使する生徒に対し、退学処分になる、という事例について考えると
生徒側:制服を着ない自由、指導に従わない自由、学校を辞める自由
学校側:制服を着るよう指導する自由、退学にする自由
単純にお互いの自由の行使の応酬に過ぎません。ここに責任は存在しないのです。
学校は制服を着てこない生徒に対し、学校へ来ないという要求をする自由もあり、生徒は制服を着ない自由もある。自由の衝突の結果、退学になる、というだけです。
自由のために責任を取ったわけではないのです。
あくまでお互いの自由権の衝突の結果、物別れに終わったに過ぎません。
自由の行使を恐れる大人を作ってはいけない
高校3年生は、今年から名実ともに大人となります。
相手が大人であるにも関わらず、責任を盾に相手の自由を制限するような言い方をすべきではないと私は考えています。もちろん、未成年に対しても同様ですが。
日本人は自由の行使に消極的な人が多いようです。
その原因の一つに、自由を責任とセットにして、自由を行使させない圧力を幼い頃から受けていることがあるのではないでしょうか。
「自由には責任が伴う」という言葉を聞くたびに、その2つを別の概念として切り分けることが大事なことのように感じています。
私はあくまでも、自由に対して責任を取る、という考え方には批判的な立場であって、無責任を礼賛しているわけではないというのを補足しておきます。
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