「僕だけじゃない」という言い訳だけは絶対に許さない
指導の軸
学校教員をそれなりの年月していると、自分の中の軸がはっきりしてきます。
服装、生活態度、言葉遣いや提出物などそれぞれの教員によって指導の強弱があります。
おそらくはその教員の指導方針がその根本にあり、教員としての矜持をもって指導されている方がほとんどだと思います。
私自身はそこまで人様に言えるような矜持やこだわりがあるわけではなく、比較的リベラルな傾向があると自己評価しています。
合理主義な傾向があるため、上下関係や言葉遣いなどに関してはそこまで厳しい指導はしたことがありませんし、授業中のトイレ退出や水飲みなどに関しても原則認める方向で考えています。
許せない言い訳
そんなタイプの私ですが一つだけ生徒がある言い訳口にしたときだけはかなり厳しく指導します。
それは「僕だけじゃない」というものです。
この指導場面は授業中に別のことをしている(端末でゲームをするなど)を見つけた時、あるいは違反的な行為を行ったときです。
先にも述べましたが、その行為を指摘、注意した時点で「すみません」と謝る生徒に対しては規定通りの処分を淡々と行いますし、その後にその件についてくどくど言うことはありません。
また「規定がおかしい」といった反論をする生徒に対しても話を聞いた上で理があればある程度の譲歩をしますし、そうでない場合はきちんと議論をした上で処理を行っています。
当然この時に厳しい言い方をしたりすることはありません。
ところが注意や指摘を受けたときに「僕だけじゃない」という言葉を口にする生徒が一定数存在します。
この言葉を口にした生徒に対してだけはかなり厳しく指導を行っています。
厳しい指導の理由
私がこの言葉を嫌う、強く指導する理由は以下の2点です。
論理性を欠き全く無意味な主張であるため
現実社会において様々な場所で嫌悪される言葉であるため
1.論理性を欠き全く無意味な主張であるため
こうした注意はそもそも当人が犯したルール違反に関してのものであって、誰かが同様のことをしているかどうかは現時点では議論の対象としていません。
ルールが間違っている、処分に不服というのであれば聞く余地もありますが、自分が起こした違反に対して他者が同様の違反をしていることは処分や処置は無関係です。
にもかかわらず、皆がやっているから許されるという主張は論理性を欠いており現代の法治国家を生きる人間とし不適当なふるまいではないでしょうか。
(スピード違反の取り締まりなどでも同様の主張をする大人の資格の無い人が一定数存在するようですが)
2.現実社会において最も嫌悪されるため
加えてこうした言い訳は総じて嫌悪される傾向にあるためです。
論理性が高い上場企業や士業などではそうした言い訳をする人間が評価されないのは言うまでもありません。
ところがそうした仕事とは異なる職業、現場仕事で社会を支えるような人達からも同様の評価を受けます。
大工や整備工でこうした言い訳を口にすれば親方や上長からきつくどやされるのは火を見るよりも明らかです。
この言い訳は自身の論理性の欠如を見せつけながら他人の不快感を高める言葉でしかなく、何ら自身の立場を好転させるものではない、むしろ悪化させることしかないでしょう。
誰しも口にしそうになる言葉
とはいえこうした言葉を口にしたことがない、あるいは口にしそうになったことが無い人はいないはずです。
私自身も時と場合によってはそうした思いに駆られないことがないわけではありませんし、それは多くの大人がそう感じる部分があるのではないでしょうか。
しかし、だからこそ口にする習慣をつけさせてはいけない、と感じるのです。
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