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行事多過ぎ問題:「学校は授業以外が多い」という正論にどう向き合うか

学校の目的は言うまでもなく教育を行うことです。

ここで言う教育とは主に教科の教育であり、これは諸外国では当然の認識となっています。

ところが日本においてはその認識が少々異なっています。

ある国際アンケートで仲のいい友人の数を聞いてみたら、日本の学校に在学している人では平均9.6人もいた。これは先進7か国のなかでも、しかもフルタイム労働者、アルバイトなど様々な立場の人の場合と比べても、飛びぬけて多い数字だった。
 ちなみに「学校に通う意義」を聞くと、「友だちとの友情をはぐくむ」が日本では群を抜いて世界一多かった。他の国で多かったのは「知識を身につける」だったのに(※1)。

どうやら教育の当事者である子供たちの認識は「友人との交流」が学校の意義となっているようです。

豊かさの副産物

こうした認識そのものは決して嘆くべきことではないように感じています。

なぜならば、教育が当然のように受けることができるという環境が前提にあるためにそうした考えになるだろうからです。

ではもう一方の当事者である教員はどうでしょうか。

日本が貧しい時期においては知識の獲得や思考力の養成が第一義という認識がほとんどでした。

しかし、日本社会が豊かになり、その後数度の世代交代が進み教員側の認識も変化していきました。

その結果、教育現場でも人間力や友人作りの優先順位が上がり、行事や部活動の存在価値が向上しました。

また、教育関係者以外も同様の流れで、教科学力以外のものを学校に求める動きが強まりました。

日本における授業以外の比重の高さは国民性や文化に由来するところもあるのでしょうが、個人的には広くいきわたった豊かさの副産物であるように感じています。

授業は動画や塾で十分、学校はその他をしろ、という暴論

こうした教育論の議論において、yahooのコメント欄やTwitterに見られるのが授業は学習塾やスタディサプリ、東進などで十分だ、学校は人間関係の構築や部活動などのその他の活動に力を割け、という意見です。

これは分業や適材適所を進める合理的な意見のように思えますが、実際には社会の一部分しか見えていない暴論です。

この手の意見を言う人の多くはインテリ層で、自分は塾で勉強した、学校の授業は簡単、レベルが低かったという感想を持っています。

彼らの多くは経済的にそれなりに豊かで、小さいころから教育を先取りして受けてきた人たちであり、教育環境に恵まれた人たちです。

その人たちからすれば、生活インフラの最低限の教育機関の質はそれほど優れたものには見えないでしょう。

しかし実際には教育や学問に関して学校という場所が無ければほとんど接触をする機会の無い人が多数存在しています。

彼らは自学をすることも難しく、動画だけで学習が完結するほど周囲のサポートを受けれらることもないのです。そしてそうした人たちは国民の半数を超える数ぐらいは存在しているにもかかわらず、インテリ層は彼らの存在を忘れています。

つまり、インテリ層の多くには中高一貫や難関大学に進学し、そうした社会の中で教育と縁遠く生活する人が視界に入っていないということです。

現実を見れば、授業動画で学びが完結させられる生徒はほとんどいませんし、学校無しで学習塾のみで学べるほどの通塾回数の支払いができる家庭もごくわずかです。

授業優先という当たり前の文化の定着をいかに図るか

ここ何十年にわたって、学校教育は事務作業の負担が増加、部活動や行事を優先する不文律がまかり通ってきました。

その結果が学校不信を招き、地域の信用を得るために御用聞きや何でも屋となってさらに本業がおろそかになるという悪循環に嵌ることになったのです。

そろそろそうした流れを断ち切る時期が来ているように感じます。

まずは授業を優先した意識改革を、まずは教員自身が行う必要があるのではないでしょうか。

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