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教員が生徒へ年賀状を書く行為の是非と個人情報の取り扱い

年が明け、1月1日の我が家の郵便受けにも年賀状が多数入っていました。

最近は年賀状のやり取りをしない人も増えているようですが、いまだに廃れない風習のようです。

今年から個人の年賀状を止めました

私は今年から私個人の年賀状を止めました。

特に誰に宣言したわけでもないのですが、もはや準備をすること自体に意味を見出せなくなったため、ひっそりと終了しました。

実際、個人的につながりのある友人、知人の場合はSNSで連絡を取りますし、職場の人間とは顔を合わせるためです。

よくよく考えればこれまで本当に必要だったのかさえ疑問符が付きます。

これほどの面倒な文化に、逆によくもまあ今まで付き合ってきたものだ、とこれまでの自分を褒めたいぐらいです。

ところで、そもそも年賀状という文化はいつからのものなのでしょうか。

平安時代と、江戸、明治時代

年賀状がいつごろからやりとりされているかの正確な記録は残っていません。

ただ、平安時代、藤原明衡によってまとめられた往来物「雲州消息」に、年始の挨拶を含む文例が収められていることから、その当時の貴族にはそうしたやりとりがあったと推測されています。

江戸期には飛脚が充実したため、庶民の間でも手紙のやり取りが普及し、その中には年賀の挨拶もあったということのようです。

ただ、現代の年賀状制度として定着したのは明治3年の郵便事業の創業、明治8年の郵便はがきの発行後となります。

明治20年ごろには年賀状のやり取りをする風習が定着したと言われています。

現在の年賀状制度は約150年ほどの歴史がある、と言えるでしょう。

メール、SNSの普及による郵便の相対的価値の低下

郵便物を送る行為に関して、メールやSNSなどのインターネットの普及によってその価値は大きく低下しました。

何らかの用事、用件だけであればSNSでのやり取りの方が迅速で確実だからです。

そのため、郵便物として送付する行為は、実利的な意味よりも感情的な意味を含めたものになった、と言えます。
(住所確認や配達証明など法的な価値は依然として存在します)

年賀状などは特にその例に当てはまり、実際電話やメールで事足りるものを、わざわざハガキという即時性のないものに書いて送っているのですから、実利性は皆無でしょう。

もちろん、そのやりとりや写真が送ってきたことへの感情の動きは十分に理解できますし、特段誰かがそれを行うことを否定したいわけではないのです。

私に送っていただいた年賀状もきちんと目を通させていただいています。ただ、こちらからは返しません、というだけの話です。

教員と年賀状

クラスの生徒へ年賀状を書く、という風習がある学校が教員文化圏の中には存在するようです。

以前はそうした担任教員とのやり取りを何とも感じていませんでした。(当然ながら、私はしていませんでしたが、来た分のみは返していました)

ところがそうした文化が今日まで続いているところもあるようです。

上のリンクのBLOGはTwitter教員から激しく叩かれていることで有名な元教員のものです。現職教員を含めて、このような価値観をお持ちの方も多いでしょう。

そして、場合によっては校長から生徒に年賀状を書くように指示があることもあるようです。

別に年賀状を送る方の思いや考えを否定することはありませんが、果たして今日の教員は生徒に年賀状を書くことが可能なのでしょうか。
(ちなみにこのアカウントの方もお騒がせ教員アカウントですので、書いている内容を鵜呑みにすることは難しいのですが)

個人情報保護の観点から

忙しい、といった問題ではなくコンプライアンスに関わる問題として考えます。

生徒の住所などは業務上知り得た個人情報です。

そのため、年賀状を出す場合はあくまでも業務の一環として行う必要があります。

したがって、ハガキやインク代を学校の予算で購入し、業務時間の中で年賀状を書き、それを送る必要があります。内容に関しても学校長の確認を経た上で、発送という流れを取る必要があるでしょう。

逆に考えると、生徒の個人情報を自宅に無断で持ち帰り、それをもとに私的な年賀状を送付することは明らかに脱法行為と言えます。

校長などの管理職が、職場に提出している職員の個人情報をもとに年賀状を送ることもまた同様のことが言えるでしょう。

年賀状文化を否定したいわけではない

私は年賀状の文化を否定したいわけではありません。

懐かしい知人とのやり取り、お世話になった恩師からのメッセージ、遠く離れた子や孫の様子を身近に感じることのできる写真付きの年賀状に文句をつけたいわけではない、ということです。

そうしたやり取り、手書きや紙文書に価値を見出す人など、年賀状を書きたい人は個人的に住所のやり取りを行った上で送ればよいでしょう。

ただ、そうした風習に私自身が従うことを強いられることに関して否定的な印象を持っており、なおかつ、これまでの不文律的な個人情報の取り扱いに関しては改める必要があるのではないか、と考えているだけなのです。

時代や常識、モラルの変化に対し、古くからの慣習や文化的風習もその形を合わせて変化することは必要だと私は考えています。

そうした変化ができないものは、息絶えるしかない慣習、風習なのではないでしょうか。


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