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1億円を初年度一人で売上げた商品企画(実話)

 会社都合の解雇をきっかけに翌年一人で1億円売り上げた実話です。
”お金に困ったら売れる物を作って売ればいい” を実践してみました。
お金無し、取引先無し、人脈無し、製品無しという何も無い状態から初年度1億円を売り上げた実話です。
 そのとき開発したのがコードレス信号機です。道路工事の片側交互通行時によく見かける”待ち時間表示付き仮設信号機”を日本で最初に製品化した実話です。
同じ事をすれば同じ結果が得られるとは思いませんが一例としてお読みください。

目次
・ ブラック企業へ入社
・ 解雇を言い渡される
・ 会社都合の解雇
・ 毎日一つ商品を考えて提案
・ コードレス信号機開発スタート
・ 納品開始
・ 1億円達成
・ 2機種目の開発
・ 新会社設立
・ 3機種目の開発
・ 4機種目の開発
・ 事業譲渡


・ブラック企業へ入社 (1986年1月)

 高専の電気工学科を卒業後、日本道路公団の外郭団体へ就職しました。現在は900人くらいの会社です。その会社を1年9ヶ月で退職し石川県に戻りました。そして、大企業の設計下請けの会社へ就職しました。その会社に8年ほど勤めました。そこで電機メーカーのF社、タイヤメーカーのB社など大手企業の製品を設計しました。常時5~10件の開発や設計のテーマを持っており毎週徹夜は当たり前で、大きな設計が入ると1日1~2時間の睡眠が2~3ヶ月続くのでした。納期の100時間前になると、どのタイミングで何時間寝てどこまで仕事を進めようか考えたものです。その会社は普通の設計下請けとは少し違い研究開発的な仕事が多いところでした。それで物作りのあの手この手を勉強することができました。電子回路やソフトの設計以外にも製品を完成させるために必要なすべての事を勉強しました。睡眠時間を増やすために業務を標準化しました。電子回路CADや機械CADなどを使いこなし外注先とのファイル互換がとれるようにしました。また、見積フォーマットも作り作業を単純化しました。そうすると夕方6時半には家へ帰れるようになりました。
 いつだったか夜仕事していると社長から「一緒にがんばろう」と言われたことがあります。毎日早く帰るので、遅くまで働けという意味です。私は「いやです、私とあなたは立場が違う」、「私は給料をもらうために来ているのです」、「あなたは株主であり役員なので私とは立場が違う」と言ったことがあります。「試しに給料払わなかったら何人出社してくるか実験してみたら」とも言いました。給料が安いから言えることです。給料をたくさんもらっている人は言わない方が得です。
 サラリーマンもサラリーマンという商売なのです。こう考えると会社でのストレスが減るのです。我慢は給料をもらうための作業なのです。それで、他の会社でも通用するためにこの会社で勉強しようと思うようになりました。転職は年収UPのためにするのです。プロ野球の選手と同じです。社員がそう思うようになると経営者は大変です。良い人材を確保するために、他社と同じ能力の社員を使っても多くの利益を出す必要があります。そうしないと同じ能力なら給料の高い会社へ行ってしまいます。経営者の能力も問われます。ある年の12月、専務から呼ばれて「今期はよく頑張った」といわれて良い評価をいただきましたが、ボーナスの額を見てガッカリでした。
 私は30歳で年収1,000万円ほしいと思っていました。そこで社長に社員の評価基準を作ってほしいと頼みました。その理由は、年収を上げるためには、どうすればよいのかを知りたかったのです。評価が良くてもボーナスが上がらないので、がんばり方が違うのかなと思ったのです。しかし、できた評価基準は、減点法で、どうやっても年収が上がらない仕組みでした。その後は、おもいっきりパワーセーブして自分のために勉強しました。


・解雇を言い渡される (1994年4月19日)

 そんな生活が少し続いたとき、突然、社長から呼ばれて「もう来なくていい」と言われました。会社都合の解雇です。少し考えて、5秒後に「ラッキー」という気持ちが沸いてきました。その頃、私は結婚直後で住宅ローンが1,000万円(金利別)ありました。しかし、生活費と住宅ローンは失業保険の範囲内に設定していました。それにボーナス月の増額も無く均等払いにしていました。ボーナスをあてにしなくて正解でした。個人でも安全保障は重要です。人は信用するが、あてにしてはいけないのです。信用するのとあてにするのは全く違うことです。これが30歳の出来事でした。私の退社後、1年間で20代と30代の社員がほとんど辞めました。社員の評価基準という時限爆弾を置いてきたのかもしれません。私より先に会社を辞めていった人たちは、みんな社長とケンカして辞めていったのですが、私は静かに辞めました。これだけの人材と設備とノウハウを持った会社は下請けに使うべきと考えていたからです。

・会社都合の解雇 (1994年5月20日)

 解雇の日がやってきました。明日からは自由です。その頃、ネットオークションサイトを運営していました。DMを出すと5%の率で登録者が増えてきました。世界征服前夜という感じでした。しかし、利益が出るまで5年以上かかると思っていました。米国のe-bayは1995年スタートです。まだこの頃はGoogleもYahooも検索エンジンも無かったと思いますが、近い将来個人間取引がオークション形式になることは分かっていました。


・毎日一つ商品を考えて提案

 そこで、メーカーを始めることにしました。従って、下請けと工賃仕事はしません。使えるものは、考える力、健康な体、自動車、タウンページなどです。お金と取引先と製品はありません。この条件でできることを考えました。
 そこで考えた方法は、毎日1つ商品を考え提案書を作り飛び込み営業することです。採用されたら一緒に製品開発を行えばいいと思っていました。
 それから毎日1つ製品を考え提案書を作りプリントアウトし車にタウンページと携帯電話を積んで飛び込み営業を行っていました。半年を過ぎた頃あるゼネコンを訪問しました。ケーブルがない仮設信号機を作れないかと言われました。それまでの信号機は、工事区間のあっちとこっちの間をケーブルで接続して動作していました。そのケーブルが通行車両や工事車両などに踏まれて切れるのです。そこで、「コードレス信号機を作れます」と返事をして製品を開発することになりました。これが12月のことです。
 提案書に書いた案は採用されませんでしたが一つの製品を考えて設計製造することになりました。私が考えた、いきなりメーカーを立ち上げる方法が成功したのです。

 ○ 利益は知恵からしか生まれない
 ○ 一点突破
 ○ 自分の財布にお金がなくても他人の財布にはある


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ありがとうございます。起業以来、下請けと工賃仕事をせず自分で考えたものを世に出して生きてきました。その経験をノンフィクションとして書いています。