【~連載~静岡の歴史を学ぼう300】Ieyasu's retirement 家康の隠居
※ この記事は「静岡移住計画Facebook」に掲載しております。
おかげさまでこの連載も今回で300回を迎えました。
お読みくださる皆様のおかげです。ありがとうございます。
このサイトのタイトル「静岡移住計画」に立ち戻り、静岡のもっとも偉大な移住者、徳川家康公の移住を取り上げます。
徳川家康が将軍として在位していたのはわずか2年2か月でした。家康公は隠居するために駿府に来たと言われていますが、本当にそうでしょうか。静岡新聞社より出版された「葵三代と静岡 ジパングの王様 徳川家康」私の歴史の師匠、黒澤脩先生の本から家康公の隠居について再考します。
また最後にはアメリカ国立国会図書館にある「駿州府中お城の図」のリンクをつけてあります。是非ご覧ください。
Ieyasu's retirement
家康の隠居
Ieyasu's moving to Sumpu was not for mere retirement.
家康が駿府に居を移したのは単なる隠居ではありませんでした。
If you think he moved to simply retire, then you are missing the essence of Ieyasu's political strategy.
もし単に将軍を引退して転居したのだと考えているなら、家康の政治戦略の本質を見失っています。
Ieyasu marched into Sumpu riddled with problems on how to maintain the Edo feudal government longer.
家康はいかにして江戸幕府を長く維持するかという課題を抱えて駿府にやってきたのです。
He had a singular goal: to establish a strong foundation for the Edo feudal government.
家康の目的は一つのみ。江戸幕府の盤石な基礎を作り上げる。それだけだったのです。
Ieyasu ordered the construction of the Sumpu castle and the development of the city.
家康は駿府城と駿府のまちの建設を命じました。
Ieyasu forced the feudal lords across Japan to shoulder the construction and labor costs, thus reducing their financial power.
家康の命により、日本中の大名たちは建設と労役の負担を強いられ、それにより財政的な力を削がれたのです。
Ieyasu was the de facto shogun.
家康こそが実質的な将軍でした。(もちろん二代将軍秀忠は武家諸法度等、政治的功績を認められる偉大な将軍です)
Under his rule, his long-standing rival, the Toyotomi family, was eliminated and the feudal lords submitted to his shogunate.
家康の支配の元、旧来の対抗者である豊臣家は敗れ去り、大名たちは幕府に服従しました。
Sumpu was an important political base for the feudal government, along with Edo.
駿府は江戸と並んで幕府にとって重要な政治的本拠地でした。
In truth, Sumpu was the real seat of the feudal government because Ieyasu wielded more power and influence than the official shogun in Edo.
実際、家康に強い権力があり、江戸の将軍より影響力を持っていたので、駿府が幕府の実質的な中枢だったのです。
駿州府中お城の図 米国国立国会図書館所蔵
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