見出し画像

幻想録 / 船上


「シスター、大変です! 人が倒れていて」
「今朝掃き集めた落ち葉の上に」
「裏庭に・・・? まあ、なんてこと」
「礼拝は後にして、救護を」 
「息はしています」
「この辺りでは見ない顔立ちね」
「それにしても、どこから?」
 

 海に来てしまう。望んだ訳でもない、来たくもなかったはずの海に。

 普段、この海のことは殆ど思い出さないのに、来る度「ああ、また来てしまった」と思う。どうやって来たのか、どうやって戻ったのか、そうした記憶は綺麗に消されてしまっている。


 私がいるのは、簡素な板を張り渡した船の上。海面からはかなりの高さがある。船上には、ロープ1本見当たらない。操縦席もなく、船室もなく、舵すらない。錨もまた、ない。いつも忽然と私は現れて、海の只中にいた。

 そこに存在する全ては、傍目では嘘偽りなく美しく見えた。揺蕩う波は眠たげに船底を撫で、陽に照らされた水面はきらめきに溢れて、雲ひとつなく晴れ渡る空に、呼吸をすれば真昼の暖かな大気が悠々と総身を満たしてゆく。甲板に立てば、遠くの水平線と薄蒼い空だけが遠くに溶け合って見えて、時折吹く海風のほか、調和を乱すものは悉く排除されている。そんな場所だった。


 腰掛ける椅子こそないが、甲板はとても清潔だった。体育座りをしても良いけれど、大抵はぼんやり立っていることが多い。海面に跳ね返される目眩むほどの光の群、屋根のない船の上には日除けになる物はなく、私は紫外線を一身に受けながら、生成されていくメラニンのことばかり気になった。来たくて来ている訳ではないので、日焼け止めなど持ち込んでいる筈もなく、どうしよう、どうしようと甲板を無意味に右往左往した後、結局、真ん中より少し船尾に近い位置に立ち尽くすことになる。私は諦めて海を見つめた。見るもの見えるものが、海のほかに何もなかった。


 少しでも良い方向に考えようと思えば、出来るのかもしれない。こうした天然のセラピーは、易々と受けられるものではなく、普通に受けようと思ったら、大変な金額を積まなければならないはずだ。さらには、大洋の只中にありながら危険もなく、闇を怖れることもなく、やや眠たいということのほか、生理的な欲求も起こらなかった。うとうと微睡んでは波に揺られて、常時小春の暖かさ、静かな海に一人きり。恐ろしいのは、もっと別な点にあった。私がいるのは安全な、しっかりとした造りの静止した船。目的地も見えず、辿ってきた航路もわからない。唐突に出現し、用意された舞台。することはなく、ただ退屈だった。


 退屈が問題なのかというと、違う。むしろ日常的な退屈なら、私にとっては好ましかった。とはいえこの船上での退屈は、始まりこそ呑気なものだが、気づけば爪先から次第に這い上がって、心臓が保たないほど自身を苛むような、虚ろな不安を増長させてゆくのだった。誰もおらず、何も起こらず、船は動かず、紫外線を浴びて呼吸するだけの時間が果てしなく続き、永遠と思えるほど終わりが見えない。見るものすることもないとなると、主を喪った庭のように思考は整備されずに益々入り乱れてしまう。そんな中でまず考えるのは、この調和が突然崩れる時のことだった。一時的に生理的な欲求がないだけで、いずれ空腹を感じたり不調が現れたりするのでは。波が穏やかなのは今だけで、いずれ空模様が変わり、嵐が来て、暗澹たる夜の闇が訪れるかもしれない。そうでなくても、突如どこからか異国船が現れ、言葉も通じない人間に捕らわれて身を売られる可能性だってある。もしそうなるとしたら、その瞬間までなす術もなく、この船上にじっと立ち尽くしていなければならないのだろうか。ただ無力に、その運命に押し潰されて、避けられぬ死を待ち続けるのだろうか? それは、想像しただけでも耐え難いことだった。


 この船の目的地はわからない。でも、いつかもとの世界に帰れる、そのことさえ固く信じていられればよかった。それに、どこかへ向かって進んでいるとしたら、私は知りもしない、自分の知識の中にある地図には載っていないような土地に到達してしまう恐怖がある。しかし実際には、帆もなければ舵もない、太陽は南中したままで風もほとんど凪、この高さと船体の大きさでは、手漕ぎする訳にもいかない。出来ることと言ったら、空か海か自分の手足、何もない甲板を見つめるか、眠るかのどれかという有様だった。身を隠せない船上での眠りは、あまり無防備すぎる気がして落ち着かなかった。


  目的地がないなら、来るべき災難に備えておくという時間の使い方もある。今は問題がなくても、今後のことを考えれば、何かしら出来ることがあるのではないか。まずは、これから食欲が戻って来た時のために、食物を手に入れるべきだ。人類はそうやって、未来を見据えて生きることで、高等動物へと進化を遂げて来たはずだった。この船には釣り道具も銛もないので、潜ることも選択肢に入れなくてはならない。でも、潜ったところでもう一度船の上に戻れるのか。この海に魚や甲殻類がいるとも獲れるとも限らないし、獲れたとしても火も通さず生でかぶり付くしかない。あるいは、空を飛ぶ鳥を狙おうか。いや、矢もピストルもないのだし、鳥は滅多に現れない。そもそも、サバイバルゲームにかけられた人間は、誰しもロビンソン・クルーソーのように必死に生き延びねばならないのだろうか? 何の試練も起こらない、サバイバルゲームでも。


 こうして考えて続けていると、徐々に意識が薄れてきて、それがまた恐ろしくもあった。頭がぼんやりして、眠気が襲って、何だか全部、どうでもいいように思えて、しまいには自分が誰であったのかすら、よく分からなくなってくる。この船の上では何一つ変化が起こらない。眠っても眠っても、起きたら拍子抜けするほど静穏な状況と同じ光景が続いていた。誰もいないのだから、あなたも私もあの人もこの人もなく、名前はいらない。アイデンティティも、関係性もいらない。この世界にあるのは、空と、海と、船と、私、それだけだった。そこでは、生きるための根本的な気力が、どんどん薄れていくらしい。もし病に罹るとしても身体の方ではなく、心が死んでいくのが先だ。確実に。


 出来ることがないとわかると、私は火消しですっぽりと炎を覆うように不安を押し込めて瞑目した。視界を強制的に塞ぎ、無駄な葛藤の全部を、手の届かない自らの奥底に封じ込めてしまう。諦めの状態に入る。眠ってしまえば、楽になれた。恐れや不安、退屈からも解き放たれ、自由に夢の世界で遊んでいられる──とまではいかず、あまり深くは眠れないのだった。絶えず眠気が纏わりついてくるにも関わらず、薄れていかない焦りが完全に眠りに落ちることを出来なくさせていた。封じ込めたはずが、実際には内側から囚われているだけなのかもしれない。南中し続ける太陽の下、少しずつ気を狂わせながら、私はひどく浅い眠りを繰り返した。


 以前この海に来てしまった時、どうやってもとの世界に戻ったのか。あれこれ試したうちのどれかが符合したのだったか、何もせずにいつの間にか戻れていたのだったか。それだけが知りたかった。おそらくこの場所には、長く居続けるべきではない。ここはおそらく。死からも生からも、遠く隔てられている。私が想像するに、時空の狭間のような場所なのだ。時間が流れない代わりに、全ては変化しない。私はといえば、無機物のようにただ存在し、それでも生体機能を維持して、美しい海に不似合いな恐怖を心臓に積み重ね、草一本、虫一匹棲まない無人島に置き去りにされたような孤独に突き落とされている。この場所で生き延びるより、帰るために、何かしら行動を起こすべきだった。この身ひとつだけを頼りに。


 ふと、足元に目を落とした私は、甲板の上にナイフで切り付けたような薄い線が、四角く浮き出ているのに気がついた。最初は何か物が置かれていた跡かと思ったものの、やはりおかしい。突然現れた?──さっきまではなかったはずだ。何を思ったか、私は咄嗟に膝をつき、浮き出たその線を人差し指でそっとなぞり始めていた。すると、指で触れたそばから線はみるみる濃くはっきりとなり、亀裂が生じてくるのがわかった。いち、に、さん。そして最後の一辺をなぞり終えると、めりめりめり、と板が外れて落ち、そこには方形の穴が空いていた。


 見下ろすと、船室でも船倉でも海水でもなく、積雪に覆われ、冬枯れて色を失った町の風景、建ち並ぶ粗末な異国の家々が覗かれた。その様子は油彩画で見るようなヨーロッパの貧しい村を想起させるが、どこか奇妙な不穏さを湛えているのだった。そしてその町の外れ、人気のないまっさらな空き地の中心に、私の開けた穴を通して陽の光が一直線に降り注いでいた。ちょうど、レンズに集めた太陽の光で紙を燃やす時のように。よく目を凝らしていると、ちらほらと点在する住民らしい人々が、あるひとつの目標点に向かって集結しようとしているのが見てとれた。不健康な血色の良くない肌と灰褐色の髪、痩せこけた身体、ぼろ切れ同然の粗末な衣服。彼らは一体どこへ向かっているのだろう。押し黙ったまま、全員がひとつの大きな流れとなって、徐々に海洋の小魚の群れのように数を増しながら、着々と歩みを進めていた。彼らが近づいていく。揃いも揃って、たった一つの光源に向かって。光──それは太陽の降り注ぐ場所、私のいる、この場所から差していたのだ! この船に違いなかった。何百もの虚な目が放つ視線が、縋りつくようにその光に向けられている。長い冬の終わり、希望の恵み、救いの光を、彼らはそこに見ているのだった。


 私に、彼らは救えない。唐突に浮かんだのはそんな言葉だった。その言葉を、もう一度心の中で繰り返してから思った。彼らを救うのは、私なのだろうか? いかにも貧しく、痩せこけた目は落ち窪み、田畑は寒さに凍結し、あらゆる望みも枯れ果てたような彼らが、神に縋るような目を、一条の陽射しに向けていた。それをもたらしたのは、私ということになる。無力な状態を強いられ、帰るための手掛りもない、こちらこそ救いを必要としていたはずの私が。暖かくても、必要なものは何もなく、行き先もない。必要なものとは、果たして何か。彼らにとっての暖かさと、生活の糧。私にとっては──帰る方法。健常な生理的欲求。目的地。生きるための。ここにはない何か。それは、どこにあるのだろう。光は差した。それだけのことだ。彼らがそこに何を見出そうと勝手で、私には何も関係がない。


 私は迷ったが、空いた穴はそのままに、船底の世界のことは放っておくことにした。ここから差すあの光が、あの世界を暖めてゆく。凍りついた土地を蘇らせ、植物や家畜を養い、食料を補給する。そうなればいいと思った。イエスでも何でもない私に、出来ることなどそれ以上ない。私にはもうわからなかった。自分が置かれた状況において、何かを求めるのは間違っている気がした。飢えてもいない。凍えてもいない。光は有り余るほど満ちていて、きらきらと眩しい。言うなればここが、私の到達点なのかもしれなかった。人は皆どこかを目指していて、それがどこかわからなくても懸命に生きていればそこに到達できると思い込んでいて、何かの拍子にそこへ行き着いてしまうなどとは想定もしていない。だから、いざそうなった時にどうすることもできないのだ。悔いなく生を全うした上で到達したのなら、素直に受け入れられたとしても、こうなっては打つ手がなかった。私はこれ以上進むことも戻ることも叶わず、ここで未来永劫安らっていなければならないのだ。死んだも同然。そう、悟るように理解して、泣こうしたがやめにした。もう今更何をしても無駄だった。涙の代わりに、私は船の上で身を正し、きちんと足を折って正座して、これまでのことは一切忘れ、今の自分に起きている現状を受け入れようと思った。その姿勢で最後に一目、目だけ動かして、四角い窓ごしに下の世界を見た。


 春が訪れていた。驚くべき速さで雪は溶け去り、土地は豊かに蘇って、野菜や果実はたわわに実り、牛や馬は柔らかな草をはみ、人々は幸福そうな笑顔を交わして働いている。私が覗き込んだ瞬間、そうした長閑な風景を一際明るく照らし出していた光の筋に影が差し、村の人々ははっとして一斉に天を見上げた。各人に二つある、合わせて五百以上もの目という目が、夢見るように私に向けられた。その目から次々と放たれた矢に、射抜かれて死んでしまうかと思うほどの、熱く、焦がれるような眼差しだった。そうして誰からともなく、合唱が始まった。


 "Gloria, in excelsis Deo."
──天のいと高きところの神に、栄光あれ。


 それを見た瞬間、血の気がさっと引いて、頭頂から肩、腕、膝、指先に向かって、身体が隅から隅まで痺れるように凍りついていった。違う、違うのだ。どうして。私じゃない。私がやったことではない。神など、ここにはいない。たまらなくなった。こんな場所から解放されて、出来ることなら私も彼らの暮らす世界に降りて行きたかった。私が彼らを救ったのではない。何かの間違いでここへ迷い込んだ私に、そんな資格はないのだ。彼らには私が見えるのだろうか。その姿は、どんな風に見えるのだろう。私は偽物だ。神様の、偽物。開けた穴を、閉じてしまおうか。希望の光を、消してしまおうか。そうすれば、私は正真正銘の悪魔として、ここに存在する権利を失い、もといた世界に戻れるのかもしれない。夥しい犠牲を生んだとしても、空虚な偽りの神様なんて滅却されるべきだ。もしも、まだ痛む心が残っているというのなら、この穴から私自身が落ちてしまえばいい。そうすれば、誰も苦しまずに済むのだから。私は決意した。


 正方形の一辺から片足を下ろし、別の一辺に両手で掴まりながら、もう片足を下ろした。迷いはなかった。両腕で宙吊りになった状態から、ひと息に手を離した。私は凄まじい速度で落下しながら、耳の横で風を切る音が痛いほど鳴り続けるのを聞いた。景色は流れ、全ての色は混ざり合って、木々や花々が、動物たちが、並んだ家や人々が、今にも触れられそうな距離に見えてきた時、意識を失った。

 

* 

 ある日曜日の午後、小さな教会の医務室で、少女は目を覚ました。彼女に何を訊ねても、首を横に振るばかりで、詳しい事情は何も明らかにならなかった。質問の意味を理解出来ているのかすら、定かではなかった。午前中に行われる予定だった礼拝は午後に回され、少女はベッドの上でシスターや日曜学校の生徒たちが歌うのを聴いていた。枕元にロールパンと温かいミルクが用意されているのを見て、彼女は突然、空腹を思い出した。正確に言えば、空腹とは、どんなものであったかを。ミルクをひと口含んだ時、礼拝堂から壁を伝って、聖歌のとある一節だけが明瞭に響き、少女の鼓膜を突き抜けた。


"Gloria, in excelsis Deo."


 子どもたちの無邪気な歌声に、ぞっと寒気を覚えた少女は、身体にシーツをきつく巻きつけてふるふると震えた。その理由は、彼女自身にもわからないのだった。飲んだばかりのミルクがひどく苦くなり、口にしてはいけない毒に変わったように思われ、吐き出すことも出来ないまま喉を滑り落ちていって、それきり震えは治った。歌は止み、辺りはひっそりとして、シスターの説教がくぐもって聞こえた。少女は徐にベッドを出ると、生まれて初めて、もしくは人生最期の食事をするかように、よく噛んでパンを食べ、ミルクを飲んだ。それから寝具を綺麗に整え、医務室の扉を音もなく閉めると、どこかへ消えてしまった。



 ミルク一滴、パン屑一つ残されていない食器類。皺一つない寝具。眠っていた少女は跡形もなく消え失せ、がらんとした医務室に集ったシスターたちは、揃って訝しげに首を捻った。


「そういえば、お庭に板切れが落ちてきたことがありましたね。風もない日に」
「たしか、冬の終わりでした」
「これも何かの吉兆かしら」
「神様の悪戯よ」



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?