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 細く開いた窓からの秋めいた風に、頬を撫でられる感触で目が醒めた。街路に面した窓から射す、街灯の明かりに照らされた真夜中の室内は薄ら青味を帯びて、壁付きキャビネットのガラス扉に映る雲の影が悠然と流れる。日中の気温が冷め切った部屋の空気を吸いこむと、鉢から庭土に植え替えたヘリオトロープがむんと香った。甘く濃い香りに頭も冴えて、半ば強制的に意識が研ぎ澄まされてゆく。枕元の時計を探ったら、シーツの自分の体温で温められていない部分に触れた指先がひやりと冷たかった。

 あくまでさりげなく、窓に視線を向ける。しかしそこには何の気配も、音もない。街路を走る車の音も、零時を過ぎた頃から途絶えている。辺りはしんと静まり返り、自分の鼓動と呼吸の音だけが、水のような空気を僅かに震わせていた。もう少し待って、それでも来ないなら、薬を飲んで寝ようと思った。   


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 こうして目が醒めた夜は、もう自力では眠れなくなる。毎晩というわけではない。それもごく短い間だけ。しかし、僕はその時間を心待ちにしているらしかった。今日は、今日でないなら明日はと、勝手な期待を重ねてしまう。その時間は、すでに僕の生活の一部になりつつあったが、幻覚だとか薬物中毒だとか、精神疾患だとかの疑いをかけられるだろうから、まだ誰にも話したことがない。正直な所、自分でもよくわからなくなる時がある。けれども白昼の下で思い出せば、簡単に夢として片付けられるものを、こう何度も繰り返されては信じるほかないのだった。

♢♦︎

 探し当てた時計の2本の針がちょうど1時を示した時、雲の切れ目から覗いた眩い月の光が薄い絹のカーテンの模様を透かして、黒く延びる人影が、床の上に静かに落ちた。

 柔らかな前髪の揺れる頭部、細い肩に沿って流れるように備わった、身体を覆うほど大きな翼。黒いドレスの裾から見え隠れする、白いストッキングを履いた片足を伸ばし片膝を立てた格好で、窓枠に腰掛ける少女のシルエット。

「起きてた?」
「どこへ行ってた」 
「別に。いつもの徘徊」
「入らないの」
「あなたの許可がいる」
「入れよ」


 黒い影は周りに誰もいないのを確認すると、カーテンを音もなく綺麗に払って、外から窓を開けて僕の部屋に降り立った。出窓に肘をつけ、寄りかかるようにして立つ銀色の髪が夜風にさらさら靡いて、青白い額の陰から澄み切った光を放つ鋭い眼が覗く。僕の姿を認めた途端、その眼の鋭さは和らいで、きゅうっと細められる。それはいつもの、彼女独特の笑み方だった。

「相変わらず眠れないのね」
「君は眠らないのか」
「私に眠りは必要ないから」
「羨ましい、君なんて」 
「"血も吸わないのに"」
「そう、一体どうやって生きてる」
「飽食の時代だもの、いくらでもあるじゃない」
「異端者」
「それって褒め言葉?」


 僕は冷蔵庫の扉を開け、ストックしてあったトマトジュースとウォッカの瓶を取り出した。彼女はヴァンパイアなのに人の生き血を嫌う。その代わり、お酒が好きだった。彼女が来る夜は、僕がお手製のブラッディマリーを振舞うことにしている。初めは彼女の言葉を信じきれず、少しでも相手の気を紛らせて我が身を護るためにお酒を用意していた。けれども、過去の何らかの出来事が彼女に人血を受け付けなくさせているのは、どうやら本当らしかった。

 氷を入れたグラスを渡し、赤い液体を慎重に注ぎ入れる。氷が溶けてカランと解けると同時に、彼女がふっと笑った。グラスを目の高さに掲げ、繊細な手先でゆっくり回しながら月の光に透かしては、また嬉しそうに目を細めている。その全てが、恒久の完全性を備えた耽美な幻想絵画の一コマとして、僕の眼に映った。何百年も生きているというのが嘘みたいに、彼女は美しかった。


 ひと口、僕の作ったブラッディマリーを口に含んで味わって、まるでそれは、その感想を漏らすかのように。

「今夜で最後にする」

 唐突なその発言に、僕には返す言葉が見つからない。初めて会ったのは、5年ほど前だったと思う。その頃はかなり辛い時期だった。それからの年月、大抵何か苦しいことがあった夜に、彼女は時々僕の部屋に来てくれた。いつしかそれが当たり前になって、永遠にこの密やかな美しい非日常が続いていくものと、僕は信じていたのかもしれない。それなのに、こんなにも呆気なく、終わりを突き付けられてしまうとは。

「それは、もう会わないって意味?」
「そう」
「何故、何か不都合でも」
「結婚するんでしょう」

 僕は自分の薬指に光る指輪に視線を向けた。確かに、それは事実だった。しかしそれとこれと、何の関係があるというのだろう。僕たちは真夜中にささやかな杯と、他愛もない会話を交わして別れるだけの間柄だ。血を好まないとは言え、彼女は吸血鬼、いわゆる魔物である。そもそも魔物に男女の別があるのかわからないが、彼女に対して僕が抱いているのは、種族を超えた純粋な親愛のつもりだった。

「こんな日が来るとはね。匂いで倒れるくらい、あなた下戸だったのに」
「いきなり何の話?」
「一つを得れば、一つを失うように出来ている。愛情が友情に変わったからと言って、何も悲しむ必要はないの」
「何を失うんだ」
「あなたが生まれ変わって、またこの街で生きていると知って嬉しかった。元気でね」
  

 意味深な言葉を立て続けに並べて、彼女は静かにグラスをテーブルに置いた。そのまま窓に向かい、窓枠に手を掛けようとする。

「またいつか──」
「ちょっと待って、生まれ変わる? 愛情?変わる? 教えてくれよ」
「ずっと昔のことだから。あの時とは違う、私もあなたも」

 何か言わなければ、と思ったが僕はしばし言葉を選びあぐねて、まじまじと彼女の顔を見た。彼女の場合、見るというより、魅入られる感覚が近い気がする。目が合うと、彼女は僕の視線から逃れるように目を伏せた。

「あの頃のあなたはそんな目で私を見なかった。今もやっぱり優しいけれど、今も私は、あなたを好きだけれど。でも違うの」

 ベット脇のテーブルの、僕の手の中の、ブラッディマリーが落とす影。浮かんだ氷は白い泡を残して溶け去り、さっきよりも薄くなった赤い液体の色がグラスの彫刻模様を散らして、テーブルの表面と僕の手の内側とを染めていた。

「あなたは私を、対等な存在として愛してくれた。あれからあなたは生まれ変わった。私だけがあの頃のまま──」
「僕と君は、恋仲だったってこと?」
「私はキルフェ」
「・・・?」
「あなたはドリアン。私がつけた」
「僕の名前?」
「永遠に若く美しい、好きだった小説の主人公。あなたは彼みたいに美しかった。そのせいで魔物の血を引いてるって言われて。僻まれてたのね。だからずっと孤独で」

 キルフェとドリアン。そういえば、彼女の名前を知らなかったことに今更気づいた。その音の響きは、たしかに何かを思い起こさせるような、長く親しんだ懐かしい名のような気がしないでもなかった。そんな名前がいつの日か、自分達のものだったことがあるのかもしれない。

「あなたに助けられた日のことを、今でもよく思い出すの。妖術行為禁止令が続く時代で、妖精も魔術師も吸血族も、民衆を脅かす存在として、疑われれば捕らわれた。神秘の力を信じたり、人々を間違った世界へ導くようなものは悉く排除されたんだ。私は翼が目を引くから、見つかれば公開処刑か、見せ物小屋行きだっただろうな。でも私はどこかで人間を侮っていて、捕まる訳ないと信じていた。そうしてあの日、大して警戒もせず、噂に聞いてたあなたを一目見たくて部屋に入ったら、人間に取り囲まれた」

 彼女は僕に背を向け、カーテンの陰に立って人々が寝静まった夜の街並みを見下ろしていた。確かな存在感を放つ彼女の翼は月明かりを浴びて、細かな霧を纏ったように仄白く光っている。街路樹が風に揺れ、床に落ちた葉影が震えた。

「寝ているあなたの枕元に屈み込んだら、隠れていた人々が寝台の下から現れて、私を壁際に追い詰めた。あなたを陥れようとしてた集団よ。奴らは、翼を外せ、馬鹿げた真似はやめろと怒鳴った。私は時間を稼ぐために、分かった、外すから退いてと頼んだの。この翼は作り物じゃないから、勿論外したり出来ない。すると頭に血が上った奴らは凶器を持って、動こうとしない私に飛び掛かってきた。そうして翼を、根元から手斧で落とそうとした」

「それで、翼は?」

「まさに斧が振り下ろされようという時に、あなたが目を醒ましたの。その時、どうしたと思う」

「頓珍漢な発言で場を和ませたとか」

「違う。そんな空気じゃなかった。あなたは寝起きで、状況を飲み込める筈もないのに、何を悟ったか即座に奴に飛びついて、私を守ろうとしたんだ。武器を持たない人を、武器をもって傷つけるのは卑怯だと叫んで」

「僕は・・・どうなったの」

「斧で、やられた。私を庇ったせいで。私の処置のお陰で致命傷にはならなかったけど、傷痕が残って、消えることはなかった」

 僕ははっとして、首元に手をやった。赤く燻んだ傷のような痕。それは僕の首筋に、生まれてからこの歳まで、ずっとあった。何度か手術で除去する話も出たが、痛くも痒くもなく、生活に支障があるわけでもないからと、結局そのままになっていた。これにそんな逸話が? まさかね。

「私、嬉しかった。何度か殺されかけてるけど、あんな風に助けられたのは初めてで。人間のあなたを好きになった。それなのに、私を守ってくれた人を私が死に追い込むことになってしまって。本当にごめんなさい。これからはどうか、幸せになって」

「いいよそんな。覚えてないし、お別れなんかしなくても、今後も友人として──」

「あなたは今、私がどう見える?」


 どうって。そんなことをいきなり聞かれて困った。彼女のこと。浮世離れした美しさ、明らかにこの世のものではない姿。その為か、他の誰にも相談できないような些細な悩みや日々の空想や、現実では馬鹿にされるようなことでも気にせず打ち明けられる話し相手でもあった。そして彼女が自分だけのもの、隠された秘密の存在であるということ。つまり、彼女は僕の、何なのだろう。

「ほらね。私はあなたのフィクション。つまり虚構の、あるいは夢想の、登場人物ってわけ。もしくは美的崇拝、鑑賞、逃避の対象。そこに一個の人格を見たり、実際に関係を築いたりする意思はないの。最初から私のこと、全然信じてなかったんだよ。本当は、会った瞬間からわかってた。でも、」

 彼女は泣いているのだろうか。長い髪の掛かる伏せられた顔は陰になって、表情は見えない。自分が何かを踏み誤っていたということだけが、ひどく鮮烈に理解された。

「幸せだったから。あなたが生きているってことが。離れ難かった。名残惜しくて」

「ごめん。君の言うことは正しいのかもしれない。でも、君に救われていたのも嘘じゃない。その・・・もう一度巡り会えて、良かったと思う。君の話が真実なら」

 彼女は小さく、頷いた。それ以上、何も言わなかった。それからもう一度、出窓に手を掛けると、身軽な動作でさっと窓枠に飛び乗った。顔は窓の外に向けたまま、軽く片手を挙げてひらひらと振る。

「さよなら、ドリアン」
「その呼び名落ち着かない」
「最後に名前呼んで」
「・・・キルフェ」

 彼女はやっと振り向いて、僕を見た。顔を上げたその口元は不意に緩んで、哀しみと喜びの入り混ざって光る目に、いつもの彼女の柔らかな微笑みが浮かんでいた。
 
「忘れていいよ。その方がいい」

 そう言った後、ふわりと脚が窓枠から離れ、彼女は夜明け前の街へと飛び降りた。銀色の翼が夜空に広がり、一瞬眩しいほど視界が明るくなる。幾度か力強い羽ばたきを繰り返すと、あっという間に彼女は遠く光る点となって、もう野禽の一羽と区別がつかなかった。


♢♦︎

 ああ、行ってしまう。彼女が僕の前から消えてしまう──本当にこれで最後なのだろうか。君がいなくなっても、僕は一人でこれからもずっと、人間界での生活に、穢い理不尽や差別や驕傲や矛盾だらけの現実に、向き合っていかなくてはならないのだろうか。僕は本当に一人なのか? そんなはずは──

 彼女の姿は今や完全に、夜の闇へと溶け去った。月は雲に沈んで、窓の外には、茫漠とした暗闇だけが広がっていた。


♢♦︎

 涙が一筋、零れて落ちた。何だこれ。思い切り泣きたいような気もするが、何がこれ程自分を悲しくさせるのか、わからない。僕は明日、結婚式を控えているというのに。ということは、喜びの涙? いや、夜中に起きて、出した記憶もないグラスが空になっていて、窓辺で涙を流しているとしたら、精神面に自信を失くさざるを得ない。こんなことは初めてで、段々と不安になってくる。これがあの、マリッジブルーというやつなのか。
 

 瞬間、首筋に鋭利な刃物を突きつけられるような冷たさを覚えた。ずきりと痛みが走り、思わず手で首元を抑えつけ、続く痛みに備えたものの、それきり何も感じなかった。

 そのすぐ後で、目には見えない何か──優しく光を放つ、柔らかな、それはおそらく銀色の何かによって、世界の総てが包まれていった。その感覚は、甘い、甘い、甘くて、苦い──。



♢♦︎

 人一人分ようやく通れる程に開けられた窓から、風が吹きこんで、まるで生きているようにカーテンが天井を覆って翻る。ふるりと身震いを一つして、明るみ始めた窓の外に目をやると、数台の車がヘッドライトを光らせて走り過ぎていった。遠くでクラクションが鳴る。少し身体が冷えてきた。

 窓を閉めなくては。そう思いながら、なかなか立ち上がることができず、それでもやっとの思いでふらふらと立ち上がって、窓を閉じた。新郎たる者、風邪をひくわけにはいかない。

 

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眠れない夜に

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