「来世に期待する」なんて、

来世に期待する、ということばをよく耳にする。当たり前のように、「生まれ変わる」という概念が信じられている。現世よりも来世のほうが幸せに生きられると信じている。行き詰まったゲームをリセットすれば、次は必ずうまくいく、と考えるのと同じで。

私には前世の記憶がない。だから、前世というものが存在するのかどうかは確かめようがない。ただ、もしそれがあるのだとしたら、前世の私は、たくさんの後悔を残して死んだのだと思っている。現世に託されたように、私にはやりたいことがたくさんあって、何も諦められない。何かを残さなきゃ生まれた意味がないという焦燥がやまない。

最近気づいたのだけれど、私は、昭和中期〜後期の音楽が好きだ。それこそバブル〜崩壊直後くらいの。しっかり聴いた記憶はないのに、なぜかフルで歌える曲がいくつかある。私にそんな能力はないと仮定すると、それは前世から引き継いだ記憶の可能性がある。と、信じてみようとしたら案外おもしろかった。意外と魂の転生スピードははやいのかもしれない。

前世を仮定する。前世の私はちょうど両親が20代前半だった頃、同じくらいの年齢だった。おそらくは東京が遊び場で、ありきたりな夢にあふれた若者だった。性別は男性だった。好きな人がいた。いつかその人と結婚するのだろうと思っていた。でも私は、夢も愛も手に入れられないまま、理不尽に死んでいった。死は理不尽にやってくる。私はそれに抗えないまま、心残りを新宿駅の掲示板に残して死んだ。

そう考えると、今の私が、どうしようもなく新宿に惹かれるのにも納得がいく。田舎育ちの私が、大都会新宿に居心地の良さを感じるのにも納得がいく。池袋も渋谷もこわくて早く逃げ出したかったのに、新宿だけは、何度でもひとりで訪れた。ひどく居心地がよかった。誰のことも知らないのに、なにもかもを知っているような気がした。

それが、個人的なノスタルジーではなく、前世の記憶だとしたらと考える。こんなことを考える時点で、私はただの、霞を食って生きている作家のはしくれに過ぎないのかもしれない。でも、もしそんな前世があるとするなら、私は託された「現世」を、できるだけ懸命に、幸せに生きなければならない気がする。受け取った心残りを、蔑ろにしてはいけない気がする。もう新宿駅に掲示板はない。

私は前世占いなどしたことがないし、前世が見えるわけでもない。ただの妄想だと言われればそれまでだし、私も半分くらいはそうだと思っている。でも時折思うのだ、もし本気で、「来世に期待」して死んでいった前世の私が存在するのなら、現実から逃れるために現世を捨てるべきではないのではないかと。

わからない。考えても私にはわからない。前世の私がどんな造形をしていたのか、どんな名前をしていたのかなどわからない。何かを妄信的に信じられるほどもう若くないし、斜に構えて見る世界が日常風景になってしまった。心は粉々に崩れて、もう元に戻れなくなってしまった。

でも、これが私の現世で、この心とともに、このななめの世界で生きていかなければならないのだとしたら、まだ私に、現世をコンティニューする権利があるとしたら、

今日を不幸にしてなるものか、と、思うのだ。




眠れない夜のための詩を、そっとつくります。