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やたら繋がろうしてたら描けなくなるし人生終わってしまうよ

繋がりたい、はずかしい話だけれど、いつ何をしていても誰かと繋がりたいという思いは少なからず自分のなかに存在している。その証拠にちょっとでも手持ちぶさたな時間ができるとすぐにスマホを触ってしまう。かと言って、誰でもいいから繋がりたいというわけでもないし、昔と比べて、私の中の繋がりたい欲はかなりその成分が薄くなってきていて、どちらかというと、孤独になりたい欲の方が強みを増してきている気がしている。

もちろん、本当に孤独になりたいわけではなくて、自分にとってなくてはならない大切なものや人や情報以外は、なるだけ取り入れたくないと思うようになってきた。もしかしたら、ずっと探していたのかもしれない、自分にとっての大切を。それがぼんやりと見えてきたから、もう探す必要がなくなったのかもしれない。それに、本当に大切にしたいものというのは、引き寄せられるように出会うべきタイミングで出会ってしまうから、むりに探さなくてもいいのかもしれない。

そんな最近の私にとって必要なのは、それらの大切たちを守るために、厳密に言うと何かを守ることなんて不可能だし幻想だから、共に生きていくために、自分の器を広げていくことだ。自分の器を広げておけば、いざというときに自分にとっての大切をその器に入れることができる。その大きさの分だけ、自分にとっての大切を入れることができる。

自分の器を広げるためにできること、それは自分の内側に潜ることだ、矛盾しているように聞こえるかもしれないけど。自分の外側をいくらいろんなものを持ってきて塗り固めたとしても、器は大きくならないし、簡単に割れてしまうもろい器になってしまう。もっとじっくり自分と向き合って、じっくり内側から広げていかなければいけない。

本当に自分を刺激するようなエキサイティングでセクシーなことというのは、自己の内側からしか見つけられない。外の広い世界と繋がればいつか見つかるはずだという気がするが、それは幻想にすぎない。自分の内側の海を深く深く潜っていくことで、想像も付かないほどの巨大な空間にたどり着くことができて、その空間には時間軸さえもなく、欲しいものは何でも手に入る。その場所ではほんとうの意味で他とつながることもできる。そこは創造性の海とも言えるかもしれない。その海と繋がらなければ、創作なんてできない、作品なんて作れない。

ここ最近の私はなぜだかわからないけれど、生き急ぐかのように制作している。それは絶えず、制作しているという意味ではなくて、生活のすべてが制作のために存在しているという感じで。食べるのも、寝るのも、お風呂に入るのも、何か見るのも聞くのも、誰かと話すのも、恋をするのも、とにかく生活ぜんぶが自分にとって心地良いものでないとやっていられなくなっている。

自分にとって興味のないこと、つまらないこと、苦しいことをやっている暇がないのだ。そんなことしているうちにいつか死んでしまう。自分にとっての大切が何なのかさっぱりわからなかった昔は、とにかく自分を鍛え上げ、向上させ、ストイックに何かに取り組むことだけが正義だと信じていた。もしくは、社会のどうにもならない問題を取り上げて議論してさも自分はすごいことをやっているんだと思い込むことに夢中になったりした。けれど、今はまったくそんなことに興味がない。もちろん、そういうのが楽しい人はとことんやればいいと思う。でも、本当の意味で世界を変えるのはもっと静かで穏やかな革命家たちだと信じている。そんな革命家たちは、とにかく自分の人生だけに集中して、自分が楽しむことを優先していて、その楽しむ様が光となって輝き、誰かを幸せにしたりしている。

もっぱらの私の課題は創作に必要な孤独を守り抜くことと、静かで穏やかな革命家たちとたまに繋がって人生を楽しむことだ。孤独を守りつつも、孤立してしまってはいけないから。自分にできないこと、苦手なことがたくさんある、でもできることも少ないけれどあるから、そういうのを交換し合って、何と表現したらいいかわからないけれど、程よい距離感で調和しながら生きていけたらと願っている。なにかの会員とか仲間とかそういう言葉で表現するような繋がりは得意じゃなくてすぐ息苦しくなってしまう。もっと自由で羽を伸ばせるようなのんきにそれぞれのリズムで機嫌よくいられるようなそんなわがままな世界を求めている。

自分の内側から発せられる何かを、掴んだと思ってもすぐに消えてしまいそうなそれらを、1枚でも多く作品にしたい。同じ感性や同じ心象風景を持つ人たちの元に作品を届けたい。と願って日々描いています。またサポートして下さることでいのっちの電話に使える時間も作れるので助かります!