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「Twilight Space online ―シンデレラ・ソルジャー―」第十四話

  • 9559文字

 VRから戻った後は、やはりしばらく調子が上がらない。

 皮膚接触用のジェルを拭いながら、首の後ろを揉んでいく。ベッドの上に座ったまま、しばらくこれからの事を考える。

 べつに面接があんな手応えに終わったからといって、このままT.S.Oを辞めてしまうという必要もないだろう。そもそもオーディションだってせめて結果が出るまでは続けたいし、動画の投稿だって上手くいかなっから止めてしまうというのも無責任な気がする。

 ミズキからは自信を持てたらとは言われているが、いつまでも待たせてしまう訳にはいかないのだろう。

 ――ガタン。

 と、突然下のリビングの方から音が聞こえ、思わず息をひそめる。

 お母さん、何かあったのだろうか。何か物を落とした、とか。机に脚をぶつけてしまった、とか。

 しばらく待っても、それ以上の何かは聞こえてこない。
 頭の中ではいろいろな心配事が浮かんでいるのに、上手く身体が動かない。下で何が起こっているのか、じりじりと頭の芯が焼けるような焦燥感がしているものの、焦りが強くなるほどに背に力がはいらない。

 しばらく待ってもまた音はしなかった。私はゆっくりと立ち上がり、恐る恐る下へと降りる。

「……お、お母さん?」

 踵を擦り付けるようにゆっくりと階段を降り、廊下からリビングへと声を掛ける。薄い扉の下から光が漏れて、ぼやけたニュースの声が聞こえている。

 私の呼びかけに答える声は返ってこず、他の物音も聞こえない。ただし、その奥からは何かツンとした酸い匂いが漂っていて、なにか様子がおかしいと感じる。

「お母さんっ!?」

 ドアを開け、リビングを見ると倒れた椅子と母の姿。
 そしてその倒れた顔の周りには吐しゃ物が溜まっていて、口の縁からは白い泡が出ている。辺りにはスルメか何かの乾物と胃液の混ざった、生臭い匂いが鼻をついて、一瞬踏み込むことを躊躇させた。

「ねえ……大丈夫? お母さん? お母さん!?」

 その場に駆け寄り、吐しゃ物に塗れた母の頭を抱いて確かめる。髪はその吐しゃ物に染みて重くなり、床に筆のように塗り広げ当た跡がある。

 頭を上げて膝に乗せると、幸いにも胸はゆっくりと上下しており、呼吸はちゃんとしているようだった。身体を横にしようと方に腕を回すと、ヌルヌルとして思いのほかにあの生臭い匂いが強く香る。鋭い刺激臭に思わず咽せてしまいそうになり、喉を閉じて唾を飲んだが、私の口の中さえも酸い後味が絡みついた。

「ねえ、本当に大丈夫? シャツ汚れてるけど、自分で脱げそう?」

「んっ……うーん…………」

 まだ意識はないが、どうやら眠っているようである。
 肩肘を頭の下に敷き身体を横に寝かせると、心なしか表情も落ち着いて見える。

「なにか拭くもの取ってくるから、待っててね? 辛かったら、我慢せずに吐いて良いからね?」

 背中をさすり、手で顔を拭う。ときおり母はすすり泣くような呻きを上げ、その度に胸が締め付けられる。なぜこんなにも、と思いリビングを見渡すと、いつのまに注文したのか部屋の端に缶チューハイの段ボールが置いてあり、無造作に端から破られて積まれた500mlの缶が覗いていた。

「すぐ持って来るから、待ってよ……? 大丈夫だからね、お母さん……」

 どうして母は、こんなになってもお酒を止められないのだろう。こうして深酒をする度にいつも調子を悪そうにて、翌日はろくに動けないでいる。

 母だってつらい思いをしているだけなのに、ただ泣きながらこんな苦い飲み物をいつも買っては飲んでいる。私はこんなお母さんを見たくないのに、でも私がそれを言ったところで、母は聞いてはくれないのだろう。

 べたべたと吐しゃ物のついた手で、なるべく周囲を汚さないようドアノブを指でつまんで回す。垂らさないよう肘を上げて洗面所まで行くと、水で流してお風呂場から洗面器をとる。

 少し冷たいが、今は仕方ない。タオルを二枚とってその中に浸し、お母さんとリビングを拭かなければ。

「……っざけんな! バカヤロー!!」

 すると突然、母の怒鳴り声が聞こえて、何かを投げつけたような鈍い音がリビングから響く。

「…………お、お母さん?」

 意識が戻ったのか、という安堵。そして、また母が怒っているという、恐さ。

 すぐにでも向かわなければならないのに、足がすくんで躊躇してしまう。いつの間にか洗面器の縁から水があふれ、ジャバジャバと排水溝へ流れていた。

「何だこんなもん! 勝手に税金ばっかり使いやがって!! 金をなんだと思ってんだ!?」

「ねえ、もう大丈夫なの……? お母さん?」

 リビングへ戻ると、顔を真っ赤にした母が上体を起こし、テレビに向かって怒鳴っている。何とか机に手をかけ立ち上がると、またその上の缶を開けてチューハイを飲もうと口をつけていた。

「もう……ダメだよ。今日は、もう……」

「あっ!? うるせぇ! 関係ねーだろ?」

 チューハイの缶を取り上げようとした手を振り払い、中みが零れ辺りに散った。リビングの中は吐しゃ物やアルコールの匂いが立ち込めていた。

『――JAXAの発表によると、今回のこのペリカン5号は来月19日に発射の予定。その後半年ほどかけて火星に物資を届けるという事です。今回このペリカン5号には様々な施設維持のためのパーツや資源、火星上での実験のための材料などが運び込まれます。特に火星の土での栽培可能かの実験のため、各種地球からの菌類のサンプル、そして60個の種イモや大豆等がこの中には含まれており、火星基地統合制御AI「Martian-Ⅱ」がこれらのサンプルによって火星の土でのそれらの栽培が実際に行えるかという事件は今後注目されるでしょう』

 「Martian-Ⅱ」。今現在、無人の火星基地を制御し、代わりに運営や実験を行っている統合型AI。もしも自力での食糧生産も行えるようになれば、長期に及ぶ火星での様々なミッションが行えるようになるのだろうか。

「ふざけてんのか! こうやって庶民は消費税取られてつつましく生活してるっていうのに、バカみたいな計画で金を宇宙なんかに捨てやがって!!」

「お母さん、そんなことは……いいでしょ? もう、関係ないよ……」

「はあ? なにがっ!? 何が関係ないってんだテメー!!」

 下を向いてじっとその場で耐えようとしてが、特に何も飛んでは来なかった。そのかわりまた大きな声を上げたふら付いたのか、母がその場にへたり込んで苦しそうに息をしていた。

 私は流しからコップに一杯水を汲んで、母のもとに駆け付ける。

「そんなに怒鳴るから……さあ、水飲んで。楽になるから……」

「はっ…………そうやって、またご機嫌取り? アンタムカつくのよ……」

 言いながらコップを受け取り、口をつける。

「はぁーっ……だいたい、アンタはね。白々しいのよ……」

「ねえ。私ほんとうに、お母さんの事……」

「じゃあ、あの時なんで警察なんか呼んだ? 修ちゃんが、かわいそうでしょ? なんであの時、警察なんてよんだ!? なんで警察なんて呼んだのよっ!? あんたはほんと、冷たいのよ。普通の人間じゃないから……」

 胸倉を掴まれ、先ほどまで飲んでいた水滴とともに、口に残っていた吐しゃ物の飛沫も顔や胸にかかった。

 修ちゃん。修也。私の兄。
 母は酔って怒ると、いつもこの話について尋ねてくる。

 *

 ――私の都市の離れた兄の修也は、私の物心ついた時からひきこもりだった。母に曰く、もともと身体は悪く学校でも上手く馴染めないところはあったらしい。

 でも私の記憶では、兄はとにかく厭世的というか、なにかいろいろな物を諦めてしまっている人だったと思う。家にいても物音を立てることはほとんどなくて、妹の私にも話しかけるという事は少なかった。

 ただ、本当に昔は家で母と衝突することもいくらかあって、私の一番古い記憶もそうだったかもしれない。

 兄はただ大きな声で母が自分の夢を反対していたことをなじっていて、母はそんな兄の言葉に謝りながらも、兄は昔から身体が弱かったから、貴方が心配だったからと、一言一言に言い訳をしていた。そうした言い合いはやがて兄のほうがいつも黙ってしまって終わっていて、そんな兄に最後は母のほうがただ言い訳のような言葉を浴びせかけているという、終わりかたも少なくはなかった。

 今にして思えば、兄は母に対して何かを言う事をいつも無駄だと諦めていて、それで黙り込んでいただけだった。でも母の縋るような言い訳に、いつも黙ってなにも言わなくなる彼に、兄のほうが母を許さず言葉を返さないことで責めているようにも見えていた。

 言い合いがおわると兄は自分の部屋へ帰って、母は決まって私の方へきて涙を流した。

 母は何が起こっているのか分からずに立ち尽くし眺めていたわたしを抱きしめて、自分は兄のためを思っていただけなのに、私はいつも体の弱い彼のことを一番に考えているはずなのに、と。

 私にとってそれは数少ない母が私だけを見てくれる瞬間で、私を強く抱きしめてくれる瞬間で、兄は母の言う通り体の弱い人なのだ、母はそんな兄の事をいつも心配している、可哀そうな人なのだと信じていた。

 母は自分にもしものことがあったなら、お前が兄の面倒を見るのだと、兄妹なのだからしっかりと兄の役に立つのだと、言い聞かせて私の頭を撫でてくれた。涙を流す母につられて私も涙ぐみ、小指を結んで約束した。

 やがてそんな単純な構図、まるで兄がわがままな人間で、母がそんな兄をずっと思い続けている優しい人物なのだという物語を、信じられなくなったころ。あの日の事は、今でも忘れることが出来ない。

 兄は相変わらず、ずっと引きこもりのままで、私が高校生になった二度目の夏。その日の朝も私は部活動があったので、早くに家を出て、夕方ほどになって帰ってきた。

 玄関を開けリビングに声を掛けるも、母はそこにいないようだった。

 今にしても、その日の家の中は異様だった。

 別に母だって、私が帰って来て出かけているという事も珍しくは無くて、兄は大抵家に居るのだから、鍵をかけずに開けているというのもいつものことだった。

 でもその日はいつもの家の中が何か違っていて、私は今朝玄関から出た家と同じ間取り、家具、ところどころの小物も同じものが置かれた全く同じ風景の、でも、別の家に入り込んでしまったみたいだった。

 私はその見覚えがあるが、私のではない別の家の廊下を進み、階段を上がる。いつもと同じように階段から上り一番手前の部屋を開けると、私の部屋と同じように、同じベッドが並び、同じ机、同じ教科書や本が並んでいる。

 私はその部屋に学校の鞄と部活の道具を置き、制服の上着を脱いでクローゼットのハンガーへかける。それはいつもの学校の帰りと全く同じ動作なのに、まるで自分が世の中で、全く異常な行動をしている不審者になったような気分だった。

 私は部屋にいてやはりどこか落ち着かない感じを覚え、しばらくすると廊下へとでた。

 いつもと何が違うのだろうと考えると、その廊下の奥からはなにかトイレのような臭いと、男子の剣道部の酸っぱい汗のにおいが混じったような、おかしな匂いが漂っていた。そして薄暗いその場を見渡すと、普段決して開かないはずの、兄の部屋のドアが開いていた。

 私はここが、やはり自分の家ではないと確信した。その部屋からはなぜか年配の女性が声を枯らしてすすり泣くような声も聞こえてきて、いよいよ自分はここに居てはいけないのだと感じた。

 しかし、なぜだろう。その時その場から黙って逃げるという事は考えられなくて、せめてその部屋で泣いている女性に一言かけてこの家を出なければという想いな拭えなかった。

 この家に関係のないはずの私だけど、その場の当事者であるという想いは、どこかにずっと拭えなかった。

 はたしてその部屋をのぞいてみると、そこは私の家の、私の兄の部屋だった。すすり泣いている女の人は私の母で、彼女は窓のカーテンレールに首を吊り、両足を投げだし紫に鬱血した顔の兄に縋りつき、縄を外すこともできずにただ泣いていた。

 私は母に何度か声を掛け、その度に払いのけられ、母の伸びた爪で腕や頬にミミズ腫れが出来た。

 私は一旦自分の部屋に上り、鞄からスマホを出して110へ電話した。応答口の女性が訊ねるままに母と兄の様子を述べ、自分でも驚くほどに淡々と、その場の事を相手に説明することが出来た。

 兄の身体には呆然自失となった母が重なり合っていて、動かすことは出来そうにない。家族は私とその母一人で、この場に助けは呼べそうにない。

 救急車は呼ぶことになるが、すぐに近くのパトカーが駆けつけてくれる。オペレーターのその人には、いちおうその場の状態を確認するため、すこしだけ言うとおりにしてくれないか、と尋ねられた。

 私はそのスマートフォンを冷たくなった右手でガッチリと握り、耳へしっかりと押し付けた。その奥のオペレーターの女性の声を逃すまいと、集中して聴きながら、廊下をゆっくりと歩いて兄の部屋へとまた戻った。

 どのように首をつっているのか、その兄の様子はどうなっているか。その場に縄は切れそうなものはあるか、少しでも体制は変えられそうか。切迫した緊張感はありながらも、その声はゆっくりと落ち着いていた。

 私は言われるがままに一つ一つ確かめて、その言葉に従っていく。途中兄の体温はどうなっているかを尋ねられ、指示通りにそれを確認するために手を伸ばす。失禁した小便の匂いが立ち込める中、兄のベッドへと膝を掛け、左の脇の下へと指を差し入れ、熱が残っているかを確かめた。

 兄の身体に熱はなく、湿ったゴムの塊みたいにブヨブヨとして、脈はなかった。

「――何してるのっ!? 修也に触らないで!!」

 突然母が私に怒鳴り、驚いてベッドから落ちてしまった。からのペットボトルや缶を潰してしまい、けたたましい音が鳴る。兄の部屋は、生ごみのような臭いと、なぜか漂白剤のような臭いが混ざっていた。

『大丈夫ですか? なにか、あったんですか!?』

 スマホからオペレーターさんの心配する声が聞こえ、すぐに問題ないと伝える。母はただ錯乱しているだけなのだ。本当は兄を、ただ助けたいだけなのだと。

 だから、大丈夫。大丈夫なのだと私は彼女へ返し続けた。

 そうこうしているうちにパトカーのサイレンが近づいてきて、家の前で止まった。母はようやく何か周囲が騒がしいことに気づき、騒ぎ始めた。

「なんなの? なんなのよっ!?」

 異様な感じを察したのか、到着した警官はすぐさま母を引き離し、兄の身体を持ち上げ首に締まったロープに余裕を作る。それから母を部屋の隅へと座らせると、二人がかりでカーテンレールから縄を解いて兄を寝かせた。

 私はスマホを耳に押し当てたまま、その光景をただ見ていた。

 母の方へと視線を向けると、母はこんないも暗い部屋の中でキュッと瞳孔の締まった怯えた目で、私やその警官たちのことを睨んでいた。いつの間にか通話は切れ、スマホのスピーカーからはツーツーという音が鳴っていた。

 あの時のことで母は私を度々せめて、「アンタは冷たいのだ」と私をなじる。

 ひきこもりではあったが通院歴はなく、長年福祉とは繋がっていなかった。兄の突然の自殺についてはっきりと彼の意志であったと言えるものはなにも無く、母や私への聞き取りや、残された兄の持ち物や部屋の捜査はそれなりには長く続いた。

 当初には息子の死に錯乱した母に同情的ではあった警察の人も、あの時の印象のまま彼らに敵意を抱く母を、次第に厄介に思うようになっていった。代わりに彼らは比較的話の穏やかに進んだ私へは、しっかりした娘という印象を抱いていて、そのことも母は気に入らないようだった。

 そしてある時からは母は、「どうしてあの時警察を呼んだのだ」と私に問うようになった。それはあの時受けた彼女自身の屈辱への裏返しであり、そしてもしもはじめから救急車を呼んでいれば、兄が助かったのではないかという彼女の希望のようなものもいくらかは乗っているのだろう。

 だから母にとっては私は冷たい人間で、死に際の兄を助けようともせず、淡々と死にゆく兄の現場を警察に説明していた人非人なのだ。

 今となっては、母にそう思われていることにも、もう慣れた。
 享年32歳で体重が75kgあった兄が身体が弱い人だったのか、結局はもうわからない。ただ、私には母がまだ可哀そうな人だという想いが残っていて、そんな母が私や兄をそう思うことで、自分を責めずに居られるのなら、それでいいのだとも思う。

 ただ私はあの時、死んだ兄の亡骸に縋りただすすり泣いていた母を見た時、誰かに助けてほしいと思った。

 それは、もしかしたらまだ助かる見込みの兄を、救急救命士に行院へ運んでほしいというものではなかった。兄が死んで母と二人きりになった私に、どこかほかの家へ連れ出してほしいという意味でもない。

 ただあの時、物言わず、動かなくなった兄に縋り続ける母の姿に、誰かがこの人を助けてくれなければと思った。愛していた兄に引きずられ、今にも同じところに逝ってしまいそうだった母を、誰かが呼びかけてこの世に引き戻してくれなければと思ったのだ。

 *

「修也が可哀そうだった……修くんが可哀そうだったでしょ!? なんで警察なんか呼んだの? なんで救急車も呼ばないで警察なんか……」

「お母さん……今日はもう……」

「うるせぇって言ってんだろっ!?」

 まだ半分残っていた缶酎ハイを投げつけられ、おでこに当たり床にレモンの匂いが広がった。

「だいたい修也だって、私が守ってあげなきゃいけなかったのに……あの子に宇宙飛行士なんて無理だったのに……でもあの子は、子供のころからどうしてもって……」

「お母さん。ほら、水飲んで……シャツも替えて、今日はもう寝よう?」

「だって、行けるわけないでしょう? あの子が火星の宇宙飛行士になんて……?」

 正直なところ、そうなのだろう。
 ただしそれは母が心配するような、兄の身体のことではない。単に母がそうした小学生や中学での彼の夢を否定しなくても、どのみち進路に悩んで自分がそこまで優秀ではないことにいつか気づくか、そもそもそんな子供のころの夢なんて、大抵はそこまで全力で取り組んだりはしないものだ。

 なぜ母が、あんなにも火星基地の話を敵視するのか、正直なところ分からない。それは単に彼が火星に言ったらなかなか帰ってこれないだろうという母なりの心配なのか、それとも兄の夢が宇宙飛行士ほどではなかったとしても、彼が自立して家を出ることに危機感のようなものを抱いていたのか。

 とにかく母は兄のことには以上に執着し、ほんとうになにもかもに対して口を出さなければ済まないようだった。

「ふ、ふふふっ……」

 何とか椅子の背にもたれかかれるようになって、母はそれなりに意識を取り戻してきていた。私はまあ心配はないと安堵し、洗面器を取って床の掃除をすることにした。

 ――プシュッ。

「お母さん……また……っ!」

 私が睨むと、母はなにかおかしなことでも思い出したかのように笑っていて、床を掃除する私をとろんとした目で見下していた。

「そういやアンタって、自分の父親について聞いたことなかったわよね……?」

「…………………」

 私はその話題は無視し、母の吐しゃ物を片付けることに集中する。床に塗り広げれらたそれはもうすでにヌメヌメと乾き始めていて、早くふき取ってしまわなければそれだけ長く匂いが取れない。

「ねえ、興味ない? 何か思わないわけ、自分の父親がどんな人かとか?」

 床を拭いたタオルを洗面器に浸すと、一気に水が濁ってつまみか何かの噛み潰された食べかすが、その下に沈んでいく。この水はもうトイレに捨てて、すぐに替えたほうが良いだろう。

「ホントに気にならないの? だからあんたは冷たいっていうのよ……」

「お母さん、もう飲むの止めて。いい加減にしないと……」

「いい加減にしなきゃ何だっていうのよっ!? 言っておくけどね、アンタなんか修也のために作ったんだからね? そうよ、アンタは作られたのよ! 私がいなくても修也が困らないためにっ! 精子バンクで、適当に病気のない遺伝子を貰ってきて……ゴホッ、ゲホッゲホ……」

 興奮して大声を出して、母は咳き込んでしまう。
 口の中に残ったお酒をこぼして、垂れた唾液には赤い血が混じっていた。

 いったい私は、そんな話をされてなんて答えたらいいのだろう。兄がいなくなってから、母は酔うたびにその話をして私に当たるが、そもそもそんな話はずっと昔から聞かされていた。多感な時期はそんな話を聞かされて大いに動揺したものだし、自分の父親がわからないかそれとなく調べたこともあった。

 でもいまさら、母ともう二人きりで暮らしていくのだと決めてから、ときおり悪く酔ってそんな話をされたところで、私はただ、やるせなく感じるだけだった。

「……ハァ、ハァ。アンタなんか、修也がいなきゃ何の意味もないのに……私にとって愛した子供はあの子だけなのに……なんでアンタなのよ? なんで、修也じゃなくてアンタがまだ生きているのよ……?」

 母の天国には、兄がそこにいるのだろう。
 こうしてお酒に酔って母が夢見る思い出の中には、今もこの家に兄がいて、母がいて、そしてもしかすると母の昔の恋人がいる。

 でもその人は兄の父ではあるけれど、私の父ではない。その家に私の居場所なんかなくて……いや。私は、そこに居ても、居なくても、いいのだと思う。

 母は兄の身体を心配して、私を産むことを決意した。兄と私の分の生活基本年金があれば、自分がいなくなった後でも兄妹で生きていけると思っていたのだ。

 私は愛されて生まれてきたわけではないけれど、健康な精子で受精して、胚選別によって遺伝病や生活習慣病にはなりにくいはず。だから私を産むことは、母にとっては手堅い投資で、兄のためにできる精一杯でもあったのだろう。

 だから母にとって天国とは、愛した兄と一緒にいることで、私だけが今この場にいても仕方がないのだ。そもそも父もいない、母に愛されてもいない、人工授精でシャーレの上で誕生した私なんかに、天国なんて、あるのだろうか。

「なんで……!? なんで修也じゃなくてアンタなのっ……!?」

「お……お母さん。もう……お、お酒やめよう……?」

「はぁ……何言ってんの、アンタ? いつから、そんな生意気なこと言うようになったワケ?」

 こんな話を誰かが聞けば、さぞかし私が不幸な身の上だと思うだろう。でも、果たしてそれはどうだろうか。

 私は生まれた時からずっと国からお金をもらって、何不自由なく生きてきた。母は兄のためだと私にそのお金を貯めさせていたけれど、結局その兄はいなくなり、代わりに兄の貯めていたお金が、私に遺された。

 単に母は兄の死によって得たお金など、嫌なものだとしか思えないのだろう。半ば押し付けられたお金だけれど、それは確かにお金であって、そのお金で私は皆がうらやむ最新鋭のVR機器を手に入れた。ミズキや皆に応援されながら、今なにかに挑戦することが出来ている。

 私はなにも、人に奪われてきたたことなどない。
 私はただ恵まれて、与えられてここに居るのだ。

「……お母さん。ねえ、もう止めよう? このままだと身体、こわれちゃう。お母さん、死んじゃうよ……」

「ウルセーよっ! てめーが死ねばいいだろうが!! てめぇが修也の代わりに死ねばよかっただろうがっ!! 死ね、ブス! テメェが死んでみろ! 死ねっ! ブスが、てめぇが死ねぇーっ!!」


十五話。

マガジン。

#創作大賞2023

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