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問題をうみだすほど、よい文章である【読書感想文】

最近の私は読書家である。
noteを毎日投稿している影響だと思う。ショートショートを書けば、「情景描写が薄っぺらいな」と思い、小説を読む。エッセイや読書感想文を書けば、「この分野について知識がないな」と思い、ビジネス書や哲学書や心理学の本を読む。頭で考えているだけなら気にも留めなかったことを、noteで文章化することで、知識の至らなさが浮き彫りになる。あれこれ読みたい書籍が増え、週5冊くらいのペースで読書している。

今日読んだのは、NHK出版の『「読む」って、どんなこと?』だ。
小学校で習う文章と照らし合わせて、「読む」ことについて示唆を与えてくれる書籍だった。


本書から、一節を抜粋する。

たくさん問題を産み出せば産み出すほど、別のいいかたをするなら、問題山積みの文章こそ、「いい文章」だ、ということです。つまり、その文章は、問題山積みのために、それを読む読者をずっと考えつづけさせてくれることができるのです。


この文章を読んで思い出した詩がある。宮沢賢治の有名な詩、『雨ニモマケズ』だ。この詩の最後は、次の文章で締めくくられる。

みんなにでくのぼーと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういうものに
わたしは
なりたい

正直に言うと、私はこの詩の素晴らしさを理解できていない。
お風呂に入っているときに、この詩をふと思い出して暗唱する。そのたびに、「なんでこんな人間になりたいんだろう」と不思議に思う。
誰にも迷惑を掛けない。誰にも褒められない。宮沢賢治はどうしてこんな人間になりたいのだろう。青森に生まれ育った、堅実な気質からくる考えなのか。あるいは、当時の時代背景からか。あるいは、年齢を重ねた深みからか・・・。
年齢のせいならば、私は年をとっても、到底このような思考なりそうにない。いや、果たして、こんな考えは時代に即しているのだろうか。

何十回と読んだ詩だが、朗読するたびにぐるぐると思考させられる。


また、「春はあけぼの・・・」から始まる、清少納言の『枕草子』を暗唱するときも、毎回わたしは頭を巡らす。『枕草子』で、「冬」は次のように語られる。

冬はつとめて。雪の降りたるは言ふべきにもあらず、霜のいと白きも、またさらでもいと寒きに、火など急ぎおこして、炭持て渡るも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も、白き灰がちになりてわろし。

春夏秋冬と、日本の美しい情景が綴られ、「わろし」で終わる。
高校時代の国語の先生が、「わろしで終わるところに美しさがある」と言っていたのを思い出す。
「わろし」で終わる美しさは、なんとなくは理解できる。が、その美しさを言語化しようとすると、いつも詰まってしまう。すべてをありのままに受け止める日本美が感じられるからだろうか。それとも、美しさを称える言葉が並べられていたのに、「わろし」とガクンと落ちるのが良いのだろうか。
この「わろし」の良さを語る言葉を、私はまだ見つけられていない。

よい文章は、問題を産み出す。
なるほど、たしかに、よい文章を通し、問題が産み出され、私は思考させられているなと思った。

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