見出し画像

2020.01 沖縄たびー聖域と観光資源が両立する首里城ー


沖縄へ到着したその日の夕方にいたのは、今回もまた「首里城」だった。

2020年1月20日、大寒である。

そこで思いがけない感情になったことを記したい。


まずは首里駅付近の「ななほし食堂」さんで、まだその日一食も食べていなかった胃を満たさせていただいた。ただいま、の食事。さて、どこに行こうかとマップを眺めると、近くに「雨乞御嶽」という表示があるので、そこを目指してみることにした。雨粒が落ちてきそうな中、泡盛のラベルで見たことのある「瑞泉」の老舗感ある工場を通り過ぎ、首里の東南エリアの古い路地歩きを楽しんでいた。

画像1

画像2


しかし!やはりどうしても首里城に寄り添いたい気持ちに駆られ、せめて城壁周りを一周しようかなと思い立つ。出てきた通りは東の「継世門」。

画像13

完全焼失した「正殿」の後ろ側に当たる場所で、実は初めて来る場所だった。予想に反し綺麗に見えたので近づいてみると、何やら衣装(琉球王朝時代の役人衣装だそう)を召した案内人のような方が手招きしている。入れるの?と驚いたと同時に、こんな表示に正直目を丸くした。

『復興モデル』??

画像3

画像12

もうこんなに整備されているのか。前回訪れた時は、焼失からまだ一週間で、現場検証などが行われていたため遠巻きに見るしかなかった。おそらく今回も、いくらか工事が始まっていてきっとシートで覆われているだろうから、そばに寄り添えれば十分だと考えていた。「ぐるっと回れますよっ」と笑顔で見送ってくれた時は、なんだか不思議な気持ちがした。

東側から歩いてみると、まずとても綺麗なことに驚いた。灰ひとつ感じない。そして名所のインフォメーションパネルも鮮やかな朱色でピカピカしている。階段を登りきり「東のアザナ」を超えた時、私は言葉を失った。胃から喉にかけてカーっと熱くなる想いが押し寄せてきた。

それは、ニュースではあまり流れなかった角度からの景色。焼けた首里城の屋根と海だった。

画像6


ガクンと肩を落とすような気持ちになり、写真を撮るのも気後れしていると、また衣装を召した別の案内人のおじさんが、「ここからよく撮れますよ!」と笑顔で教えてくれた。どんどん撮ってくれという表情だった。それから「中の門も入れますからね」と教えてくれた。

城壁の上部にも、焼けた瓦の残骸が見える。城壁の下の細部(御嶽や井戸など)を見ながらそれを記憶におさめた。

「久慶門」に近づいたとき、首里城消失直後よりも多くの観光客が来ていたことに驚いた。海外からの家族連れ団体が多いようだ。子供達もたくさんいた。この子たちとも一緒に見た同じ光景は、、、

画像4

画像5

ー近くで見るそれには、愕然とさせられた。息が止まりそうだった。


こんなになってしまったのか、と実際に自分の目で見ると、その大きさとどうしようもない無念さに襲われた。崩れ落ちそうな乾いた瓦屋根と塗りたてのように綺麗な朱色の壁のコントラストに余計に悲しみが増した。しかし一方で、こんなに近くで見せていただけていいのかという不思議な気持ちがあったのは事実。傷は見せるものなのか。

唖然としたまま「下之御庭」に入り、「奉神門」の前にいた別の案内人の方に尋ねてみっると、ここまで解放して見学出来るようになったのは、12月15日くらいだったそうだ。焼失からたった1ヶ月半。奉神門の御開門(うけじょー)の儀式を目の前で見た日の、清々しい早朝の風を鮮明に思い出した。焼失前の9月だった。

「御殿」と「正殿」のみえる「京の内」につながる通りへ向かった。ここが一番好きな場所だ。なのに今や手が届きそうなところに、焼かれて崩れたむき出しの瓦が積み重なり「正殿」は跡形もない。本当に失われてしまったのだ。涙が溢れそうになった。建築以上に「場」としての威力が失われたような悲しみだった。

画像7

画像8

画像9

(真ん中の写真は焼失前の9月)

「京の内」にもいくつか御嶽があり、パワーを感じる植物たちも曇天のせいもあり幾らか肩を落としているような気もしたが、それでも根を張り耐えているように見えた。日没時間まではまだ1時間ほどあったが、焼失後に訪問した11月の時のように首里杜館からたまたまそこにいた人たちと夕焼けを眺めた思い出があるので、なんとなく「西のアザナ」へ向かった。冬の沖縄は少しガスがかっていて乳白色の建物との境界があいまいで、所々にアクセントのように琉球瓦が見えた。何も考えずに、ただただ移り変わる雲や光、遠くの海を見ながら沖縄にいることを体に染み込ませていた。そして雲の隙間から光が漏れ出した。

画像10

一方東の空は、こんなにもモコモコした雲なのが対照的で。

画像11


この空を今回も知らない人たちと見ながら認識できたことは、私の涙は悲しみの涙ではなかったのだとうことだった。私が心揺さぶられたのは、目の当たりにした聖域の一部が失われた焼失の跡ではなく、その中で警備や案内など観光に携わる方々たちが、「観光資源」として明るく立ち上がろうしながら、再び建て直される日を探る沖縄人の姿だった。沖縄の人々にとって、とても大切な場所が失われ、無為な気持ちという一言で表現するのもおこがましいくらい無念であったと想像するが、その気持ちに打ちひしがれずに隠そうとせず、前へ進もうとする姿に、沖縄の方の底力のようなメンタリティを見せていただけたような気がしたのだ。

そこには、観光してもらうからこそ生きられる人々がいる、という現実がある。いろんな問題は山積みだろうが、解決する道を探りながらも、悲しみを抑えずに、聖域が破壊された現実を見ず知らずの人にも「共有」しようとしてくれる沖縄の人の気持ちの強さに、心打たれたのだと思う。


刹那的な現代だからこそ、今しか見れない首里城に実際に足を運んで受け止めてみてほしい。それが首里城再建、そして観光で生活している首里周辺の方々の応援にもなるだろう。これからの人生、ゆっくりでも首里城再建を見届けていきたいので、また沖縄に足を運び続けようと思う。


静水庭🌿


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?