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初夏の酔  第2話–劣情−

 彼女は、目を泣きはらして耳の先まで赤く色づかせている。今すぐにかぶりついて、舌で溶かしてから食い荒らしたい。

 この劣情を劣情とはわかっている。

 だけど、さっきとは違う、僕を意識している彼女の目が見たい。彼女と目線を合わせたくて、僕は彼女の目の高さまで腰を折った。

 びくりと肩を揺らす彼女。
 緊張か、目をさっと違う方向へ向けてしまう。
 ぱっと彼女の頬に手を添えて、無理に顔をこちらに向けさせる。
 顔を捕まえられても目を逸らしていればいいのに、彼女は素直だから僕に囚われて、目を合わせてしまう。

「んっ……」

 息詰まる彼女の目を、きっと20秒くらい見つめていた。今どこかでは、1本くらいはCMが流れ終わっただろうか。

 いつしか、彼女が苦しそうな呼吸を繰り返しだす。
 僕に見つめられているから? そんな極上の理由を思いついてしまった僕は、彼女の目から視線を外して、少し下方へ意識を移した。


 薄く空けて、荒い息を繰り返す。

 吸って吐くたびに、かすかに動く。

 絵師に描かせたいほど形がいい。

 けれど他人には見せたくない。

 呼吸するたびに、首が引きつって胸が上下する。

 どれも、どこをとってみてもきれいだ。


 こうも彼女のどこかを見つめていると、僕のほうが彼女に囚われているような気がしないでもない。
 自虐の念を込めてふっと笑ってみる。
 当の彼女は、僕の自嘲なんかに気づきもしない。自分の呼吸で精一杯。
 そう、ならば僕にとっては好都合だ。


 僕は、垂らしていた右腕をもう一度彼女の頭に添えた。
 乾き始めた彼女の髪をまさぐり、濡れたままの髪束を探し当てる。絡ませ、絡み付かせ、彼女の目が僕を見つめて緊張して、彼女の息が瞬間的に熱くなるのを待つ――までもなかった。
 彼女は過敏に僕の指に反応して、勝手な想像で口を引き結ぶ。


 僕の指はそれを強引に抉じ開け、悶える彼女の唇に、口をつけた。
 抵抗することを諦めたのか、絆されたのか、彼女がおとなしくなる。目はいつの間にか閉じられ、繊細なまつげの間から溢れた涙が見えた。

 顔を離すと、彼女はすっと目を開けた。
 泣き出しそうな表情ではなく、彼女は明らかに僕を誘っていた。


「……なんですか、渚香先輩」

「先輩って呼ばないで」

「誘ってるんですか? 渚香先輩」

「あなた、耳ついてる?」

「ねぇ渚香先輩、拒否しなきゃ、先輩襲いますよ?」

「……」


 彼女――こと渚香。“しょか”なんて初見で読めるわけもないから、彼女の友人はみんな彼女を“なぎさ”と呼んでいる。
 だから僕は、渚香先輩に特別視されたくて、もしくは本当の名前で呼んであげたくて、“しょか先輩”と呼んでいた。

 渚香先輩は、僕の高校・大学での先輩にあたる。
 高校1年1日目、入学式の日からの僕の片想いだ。いつの間にか、告白もしないうちに気持ちが伝わっているような気もするが。



「渚香先輩」
 僕は、隙あらばと黙した渚香先輩の耳元で囁いた。

「いい……?」

「んっ」

 渚香先輩の右耳の裏側を、なぞるように舌で愛撫する。耳の内側の入り組んだ高低を、余すところなく舐め尽くす。

「やめっ、」

「せんぱい、いいですか?」

「んっ……んっ」


 僕は、びくびくと肩を揺らす渚香先輩の膝裏と背中を支えて、ゆっくり抱き上げた。
 その拍子に、先輩のバスタオルが絨毯の廊下にはたりと落ちる。
 僕がそれを置いていこうとしたのが分かったのか、渚香先輩が手を伸ばしたけど取れないから、僕がしゃがんでそれをつかんでから歩き出した。

 渚香先輩は初め、僕の腕の中から僕の顔をうかがっていた。バスタオルを腹の上に乗せ、律儀に手を組んで僕を斜め下から見上げていた。
 居心地がそうよろしくないのか、首をすぼめたりして最終的には僕の腕に頭を預けるに決まったようだった。


 土井たちが消えた廊下を進み、少し広い一角に出る。
 2台のエレベーターの扉の奥に、照明が極限まで絞られた階段があった。
 僕はとろんとした渚香先輩を抱えたまま、階段を下りていく。惚けた渚香先輩の目が閉じた隙に、僕がそのきれいな唇を汚して。

「……―――キスするのはいいけど、どこ行ってるの?」
「さぁ?」

 どこに行こうか、しかしここはどこだろうか。
 いや、ここは5階の階段だが、どうして僕はここにいる?
 ――思い返せば、こんな状況になった発端は土井だ。

「何考えてるの?」

 4階に着いたところで、腕の中から渚香先輩が僕をのぞき込んだ。ふ、と言葉にするのも面倒で、微笑みを答えとして受け流す。

 階段の暗いしがらみを抜けると、間接照明の暖かい光が目を刺した。
 壁に示される館内図を見て、415号室を探す。
「右」

 僕は先輩に言われるがまま右折して、前方を向きながら言った。

「渚香先輩、浴衣の懐にカードキーがあるんです。取ってくれませんか?」
 渚香先輩は僕の呼びかけに反応した後、沈黙して一言だけ発した。

「は?」

 それから僕は渚香先輩と目を合わせず、淡々と廊下を歩いた。
 階段から比較的遠くにある415室にも、カードキーを準備する前に着いてしまう。

 僕の顔を穴の開くほど見つめてくれる渚香先輩は、きれいな口を間抜けにも半開きにさせて、いかにも舌を入れてくれと―――


 ぱしんっ!


 軽い平手打ちが僕の頬を叩いた。
「絶対今いやらしいこと考えてたでしょう」
 渚香先輩が、じとっとした目でにやけた僕を睨んでいる。

 頬を叩いた後の行き場のない手をふらふらとバスタオルの上に戻してから、渚香先輩は言い訳する15歳児のように言った。

「ねぇあなた、私が突然服の中に手入れてって言ったら、どう思うの」

「喜びます。……渚香先輩、そもそも僕は渚香先輩に対しては常にいやらしいことばっか考えてますけど」

 僕の即答に渚香先輩はかすかに身悶えて、苦い顔で目を泳がせた。

 ……そんな渚香先輩の表情に、僕の身体への好奇心が見え隠れし始める。
 催促して触れさせて、真っ赤になった渚香先輩に煽られるのもいいなと思って、僕は先輩に3度目のキスを落とした。

「僕は早く先輩を下ろして軽くなりたいんです」
「じゃあ私を下ろして。そして自分でカードキーを取りなさい」
「それじゃあ面白くないでしょ、渚香先輩」
「くっ……」


 とうとう渚香先輩は、熱を持った頭を僕の胸に押しつけて、顔を隠してしまった。ぐりぐりと動かすのと同時に、濡れた髪がふるふる揺れる。

 浴衣越しでも伝わる、確かな高熱が僕の心臓を高鳴らせる。

 剥き出しになった、きれいな首筋。

 張りつめたその首に、思わず歯を立てたくなる。


 ついに渚香先輩は、僕に表情を見られないようにか、額を押しつけたまま、僕の浴衣の下前と上前の隙に手を滑り込ませた。
 渚香先輩の手が帯を締めたほうまで伸びて、僕の体をくすぐるように不器用にカードキーを探す。

 生に触れないものの、下前の布を一枚介して、手の熱と動かす感覚を如実に感じる。カードキーを探る渚香先輩の細い手は、淫猥なほどに僕の体躯をすうっと撫でていく。

 ときたま、先輩の肩がぴくと動揺する。

 きっとこれを無理に抱きしめたりしたら、すぐに壊れてしまうんだろう。無惨にも、僕の手に負えないひとになってしまう。
 壊さないように優しく、痛みを縋られるように激しく。
 ……いや、ほしいままに壊していたぶってもいい。


 ―――渚香先輩の手は、ついに僕の肌には触れなかった。目的の薄いカードを探し出して、ばっと襟先から手を引き抜いた。
 探すのにかかった時間は10秒もなかっただろう。だけど渚香先輩の姿の欠片ひとつが、息を詰めてしまうほどにそそられた。

「……これでしょぅ」

 苦しそうな熱を持った声とともに、渚香先輩がカードキーをその手にかざした。かすかに渚香先輩の手が震えている。僕を睨むように見上げる目も、風呂上がりの火照りに乗じて赤く潤んでいた。

「はい、そうですね」

 そう言って僕が微笑むと、渚香先輩は満足げにカードキーをドアにかざした。カシャン、と厚いドアの向こうでくぐもった解錠音がする。

「ドア、引けますか」


 僕に蹴り飛ばされたドアが、僕らを415号室の中へと急かす。

 重たい音が部屋に響き、部屋が完全な密室と化した。僕はやっと渚香先輩を下ろして、目線の低くなった渚香先輩に微笑んだ。

「……」

 渚香先輩は僕の手を離れると、危なっかしく部屋の絨毯を踏みしめ、ふらふらと部屋隅のスタンド照明に寄っていった。
 脚のおぼつかない先輩を見続けたい気を抑えて、僕は渚香先輩を迎えに行く。



 スタンド照明に向き合いながら、僕の腕を避ける渚香先輩。
 髪を唸らせてバッと振り向いた渚香先輩が、身をよじって僕の手から逃げようとする。僕の腕が腰に回ってきても、構わず逃げた。 僕は完全に手を抜いていたけれど、渚香先輩は割と本気で走っていたらしい。


 荒い息を繰り返しながらのバスルームのキス。
 今まで渚香先輩が僕の手を拒んでいたのが嘘かのように、逃げ場のない狭いバスタブで従順な熱を交わした。

 渚香先輩が初めて僕にしたキス。

 追いかける僕の下敷きになって、僕の浴衣の襟をにぎりしめながら、懸命にくちびるにすがりつく渚香先輩。自分で口をつけたくせに離し方がわからなくて、苦しそうな顔をした。

 僕が渚香先輩の手を引き剥がしてやると、先輩はバスタブの床に崩れた。

「っ…はぁ、あ、はぁ……」
 両手で顔を隠しながら、目だけ僕を見上げる。
 ご褒美を頂戴とでも言うような。

 僕は、呆れてため息をついた。
 確かに初めてのキスを褒めてあげたい反面、したかったのにされた悔しさと倍にしてやり返したい衝動が唸る。

 ふと、渚香先輩の顔から目を離してみた。ホテル設えの浴衣の襟や裾が、さっき逃げ回ったせいで大胆にはだけている。

 僕がもう少し屈んで手を伸ばそうと思えば……、どんな方法ででも渚香先輩を僕のものにできるだろう。

「なに…っ」
「いいえなんでも、っていうのは嘘ですけど」

 僕は渚香先輩の体に目を移して、意味ありげに微笑んだ。
 視線の先に気づいてしまったのか、開いていた脚を閉じる渚香先輩。それと同時に、勢いよく起き上がった。

 僕が伸ばした手を取って、僕に素直に抱きかかえられる渚香先輩。

「ん……」

 乱れた髪から余計にとろりと匂う。渚香先輩の全身が、さっきと比べものにならないほど火照っている。

 浴衣の裾が、白い脚を覆いきれていない。

 はだけた襟元から、淫猥な曲線がうかがえる。


 僕は、いい加減に堪えきれなくなって言った。
 抱き上げた渚香先輩の耳に顔を近づけて、吐息混じりに呼びかける。

「渚香先輩。今、自分がどんな格好してるかわかってますか?」
「そんなひどい?」
「……ものすごく。わざとじゃないからもっとひどいです」
「ええ……? 何、そんなぶす?」


 ドサ

 的外れな質問に答えず、僕は渚香先輩を手近なベッドに寝かせた。ただ少し力を込めて押しつけただけなのに、渚香先輩が目をつむって

「ん……」 と声を漏らす。
 それから目を開けて、自分を押し倒す僕を見つめてくる。

 渚香先輩の手首を両手で押さえつけながら、僕もベッドに乗った。渚香先輩の肩から腰が、僕の脚にびくんと反応する。

「渚香先輩、こっち向いて」
「んっ」

 顔を背けた渚香先輩の、無防備な左耳に歯を立てる。

「んっ、んっ」

 耳の付け根から先までを咥えて、熱い耳を熱い液体で濡らしていく。軟らかい渚香先輩の耳を、歯で、舌で、いいように弄ぶ。

 僕の、自分自身の息が熱くなってきているのがわかる。
 渚香先輩の息はずっと熱くて苦しい。
 僕が渚香先輩の左耳をしゃぶっている間、渚香先輩は横を向いて真っ赤になりながら、終始言葉にならぬくらいのか弱い声を出していた。

 僕がやっと左耳を解放してやると、渚香先輩がいちばんの声を上げた。

「ふぇあぁっ…! んんっ…ね、み、耳……」

 はち切れそうな熱を僕に向けて、渚香先輩は口をぱくぱくとさせる。泣き出しそうに潤む目が、僕を射貫く。

「……なんですか渚香先輩。僕今ぎりぎりなんです」

「耳っ、入ってきてるっ」

 渚香先輩が、乏しい語彙力で僕に訴えてくる。

「つば……っ」


 渚香先輩の顔と熱と匂いとすべてに侵された僕は、その表情にまた理性を崩されていく。ふるふると首を振りながら、僕が舐めた左耳を自分の腕にこすりつける渚香先輩。

 しばらくして僕は、渚香先輩が言っていることを理解した。
「渚香先輩、もしかして僕の唾液耳ん中入っちゃいました?」
「ん」
 苦しそうに、渚香先輩が小さく頷く。

 それを目に映した瞬間、なんとか保たれていた僕の何かが、砕け散ったような感覚があった。


「あーあー渚香先輩、すみませんもう無理っす」




#創作大賞2023

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