初夏の酔 第1話−愛抉−
「傷が増えたね」
そう言おうかと、僕は一瞬思った。いつと比べてなのか曖昧で、それでも生々しい色が僕の目をひゅっと息詰まらせた。
透明なほど真っすぐな白肌の上、完全な絵画にすり傷をつけてしまうようなイレギュラー。
だけど、彼女の目元に引かれたアイラインのほうが僕の目にはきれいに映ったから、彼女の脚にほどこされたリスカの痕にはなにも触れずにおいた。
ふと、彼女と目が合う。
彼女の線を凝視していたことがバレて、なんとなく取り繕って言った。
「……アイライン落とさないんですか」
意識したわけじゃなく、すらりと選んだ言葉だった。
彼女は神妙な顔で、僕をちらと見やってから素直に答えた。
「人前ですっぴん晒せないから」
目から上は洗ってないと付け足して、彼女はすとんと湯に浸かった。ちゃぷ、などという音を一切立てずに、洗練された動作で前を隠していたフェイスタオルをはねのけて肩まで浸す。
彼女の起こした波が、湯をかき混ぜながら僕を揺らす。
彼女の細やかな動作が、すべて僕の目に波を映させる。暗く透ける湯に青白い彼女の肌が浮かんで、一層弱々しく見せる。白い繊細な輪郭の線、横顔からもわかるくらい派手に引かれたアイライン。
けれど僕はそれよりも、整髪料を落とした彼女のウルフカットの、うなだれたようになっている毛先のほうがよっぽど愛おしかった。
しばし彼女の横顔を見つめながら、薄暗いガラス張りの浴場でうだる。ほんの少し手を伸ばせば触れる距離にいるのに、彼女は僕を見ようとしない。ずっと、飽きずに都会の夜景を眺めている。そのときの彼女の興味は僕になく、機械的な街並の絶えず動く光にあった。
どれだけ見つめ続けていても僕との視線は交わらず、行き場を失っていた。吐く息が、藍色の空間の隅に、静かに溶けていく。
少しの間、水音だけが響く静かな時が流れた。僕は彼女の横顔を見つめ続け、当の彼女は下界の夜景を眺望している。
誰にも侵されない2人きりの空間に、刹那幸せを憶える。しかし実際には数秒だろう。僕には、どれくらいにも長い時間のように思えた。
が、
カラカラ―… 突然藍色の世界にヒビが入る音がした。
建てつけのよい、引き戸の車輪の音。
彼女を取り巻く藍色で整えられたキャンパスに、突如蛍光ピンクをぶち込む野郎の姿。振り返った僕と背を向けたままの彼女に、土井という野郎は軽く手を上げて言った。
「……やっ、お前ら通夜かよ(笑)! つかいいとこ邪魔した?」
蛍光ピンクと藍のコントラストに、これ以上センスを疑いようがないラメ入り蛍光レッドを投入された気分。
「だんまり? あ、マジでいいとこだったの」
邪魔しちゃったかぁと言われても、反論する言葉も思いつかない。無言の空気をものともせず、土井はシャワーを使いながら器用に喋り続けた。
「なぁなぁずっとこんななの? 喋んないでつまんなくないのかよ」
――彼女の無音の世界を、僕以外が壊さないでほしかった。
しかし土井は、使い過ぎではないかと思える量のシャンプーを泡立たせながら、ちらりと僕を見て言った。
「なんか言えよー、さっき一組蒸発しちゃったんだからさ、お前らはいなくなんなよなー!」
げらげらと、作り物みたいな下品な笑い方をする。
シャンプーが目に滲みたのか、土井は「痛てて」とつぶやきながら、シャワーの取っ手を探すためにそこらじゅうを叩く。ステンレスの蛇口を叩いた末、シャワーは違う方向に噴射される。
そんな阿呆な失敗にも、土井は一人でげらげら笑った。
僕は声にならないため息をついて、水面近くで揺れて見える彼女の細い腕を見た。それから、土井の屈強そうな背中を睨み見た。
はぁと今度は、確かにため息をつく。
あーあ、もう上がろう。
こいつの声を聞いているくらいなら彼女の吐息も聞こえない暗い場所にいるほうが幾ばくかいい。何倍も有益で幸福だ。
それに、逆立つ土井の頭よりも、一滴ずつこぼれていく朝露のような彼女の髪のほうが美しい。
触れてみたいと願っても、藍色の空間がその気持ちを殺していく。
淘汰されていく気持ちに見切りをつけて、僕は口を開こうとした。
僕はもう上がるから、お前はゆっくりどうぞ
と、そう言おうとした。
しかし、土井が入ってきたのとは違う引き戸が開いたのと、僕が見つめていた彼女がすくっと立ち上がったのが、僕の声より先だった。
カラカラ―…
彼女は湯から立ち上がったときには、すでにフェイスタオルで前面を覆っていた。湯についてしまわぬ際までを、上手に隠している。
そして彼女の視線が、久しぶりに僕を捉えて揺れている――やっと交錯した線が、きつく絡む。
彼女の薄いくちびるから、ゆっくりと白い歯がのぞいた。
「……お先」
彼女は、それ以外何も言わずに浴槽の縁をまたいでいった。
ひたりと濡れた髪が、彼女の首筋に沿ってうねっている。肩甲骨が、白い背中に不健康なほど浮き彫りになって影をつくる。
きっと今手を触れたら、何、と静かに睨まれるんだろう。そんな勝手な想像をしてみては、僕はひとり彼女を恋うていた。
彼女の背中を追って顔を上げると、土井のガールフレンドがちょうど入ってきたところだった。
すれ違いざま彼女をニヤニヤと見る目が、おぞましいくらい下卑ていた。
手を後ろで組んで上半身をかたむけ、いわゆるカワイイ子ぶりっ子?
――吐き気がする。
「もう上がるの? せっかく温泉で恋バナしようと思ったのになー。
あとさ。ねぇねぇそんな一生懸命前隠さなくてもいーんだよ?
あたしなんかもう気にしてないし、混浴だからって開き直っちゃってさー」
土井のガールフレンドは言葉通り慎みもなく裸体をひけらかして、彼女を見限った末に土井にすり寄っていった。
人間としても男としても、僕は清々しいほどその女に何かを感じはしない。
他人のだから?
下品な女?
……そうではないな。
もうすでに引き戸の向こうに消えてしまった彼女が、僕の目がくらんでしまうほどきれいすぎるからだ。
「ふー……」
女性更衣室に彼女が消えてからほどなく、僕も立ち上がった。
バシャと音が立つ。彼女のようにすっと起立できないものかとやってみたが、そう上手くはならなかった。音を立ててしまったせいで、シャワーのところで何やらやっていた男女に気づかれてしまった。
「おっ。お前も出んの? 駆け落ち!?」
「あははっ! いいね駆け落ち。あたしらどこまで行くー?」
「そーだなー、」
僕は軽く冷水を浴びて、男性更衣室への引き戸から浴場を出た。
まとわりついていた湯気が全身から引き剥がされて、濡れた肌に冷房が猛攻撃を仕掛けてくる。
「あー、寒ぃ」
藍色の広い浴場とは対照的に手狭な更衣室は、白い壁に煌々と白い蛍光灯が灯った簡易的な小屋のようだ。
エアコンの位置を確かめて、風が当たりにくい壁際に退避する。そこらのかごに放っておいたバスタオルを取りあげて、濡れたままの背を壁に預けて目を閉じた。
「なんでこんなとこにいるんだろうな……」
誰にでもないつぶやきは、すぐに白色の光に弾けて消える。
目を開けてふと、彼女の横顔が目の裏に見えた気がした。
耳にかかった横髪のうねりのカーヴが光の陰影で美しく線を引いている。顔に落ちた影は、藍色に侵されてしまう。
夜景を見下ろす彼女の輪郭が、白くなぞられている。純な眼に鋭いハイライトが映えて、長いまつげに射貫かれてしまいそうな感覚を覚えたものだ。
黒いアイラインの存在もおぼろげになるほどに。
それに、彼女がフェイスタオルで前を覆っていたのは、恥ずかしいからじゃない。右脚の太股に浮き出たミミズ腫れを隠すためだ――
……そんなどうしようもないプライバシーを、僕は知ってる。
そこまで思考して僕は、はぁとため息をついた。
「―――なぁにが“知ってる”だ、ただの偶然だろうが」
そう毒づいて、僕はひとり手早く浴衣を羽織り、更衣室の暖簾をくぐった。
くぐりきれなかった暖簾をぞんざいに払うと、少し驚いた顔の彼女が突っ立っていた。
僕と同じホテルの浴衣をぴしっと着て、バスタオルを首にかけている。
「もしかして待っててくれたんです?」
冗談で言うと、彼女は潰れた毛虫を見るような目つきで僕を睨んだ。
「誰が誰を待つって?」
ふ、と思わず笑う。彼女は、僕が出てくるのが見えたので驚いて立ち止まってしまったのだろう。それをからかうのが、なぜだか無性におかしかった。
そのとき、男性更衣室のほうから、カラカラーと浴場の引き戸の音。激しい滝のようなこもった音、心なしか湿気を引き連れた熱気が流れてくる。
土井が上がったのだろう。きっとそれならガールフレンドも一緒だ。
その通りに、続いてもう片方の更衣室からも控えめな車輪音が聞こえる。それが、立て続けに二度。
間もないうちに、男性更衣室のほうの引き戸も開いて閉まった。
何をしているんだ? あの2人しかいないはずだから、2人とも忘れ物か。
そんな生温いことを考えたこのときの僕の頭は、純粋だった。
「きゃは! これ映える、イケる!!」
――男性更衣室から、女の声。土井のガールフレンドの甲高い笑声。
一瞬で理解する。
「僕らがもういないと思って行き来してんの……? え、外道」
僕の尖った言葉を聞いてか聞かずか、半歩前にいた彼女がつぶやいた。
「2人手繋いで仲良く転べばいいのに」
言い終わって、きれいな笑顔で僕を振り返る彼女。
その勢いが、ウルフカットの毛先から透明なしずくを飛ばした。それが、僕の浴衣に数滴の染みを描く。
「あ、ごめん」
ハッと目を見開く彼女。
軽く跳ねた肩。
揺れるノーセットの前髪。
ひゅっと吸い込まれた呼吸。
崩すことのできないだろうと思っていたくちびるが、小さく震えた。
ああ、愛おしい。
「……っ!」
ほぼ無意識に手を伸ばして、逃げようとする彼女を乱暴に抑えつけた。
首の輪郭に指を沿わせて、耳の裏から襟足まで、振り切ろうと抗う頭を強引につかんで支える。
「―――んっ」
うなじを撫でた瞬間にびくと震える彼女が、悦に喘ぐ。それを意識してしまったのか、顔を赤らめて悶える彼女。
ドライヤーで乾かされた髪に指を絡ませると、濡れたままの温かい髪がぐしゃりと手に張りついた。爪を彼女の頭皮に突き立ててくるりと動かすと、髪が絡み合い意志を持ったように僕の指を離さなくなる。
顔を火照らせる彼女との間合い数センチ。
彼女の目が何かを訴えて潤む。
「あ…」
涙は零れなかった。かすかな嗚咽が漏れただけ。
か弱い手で僕の胸ぐらをつかんで、彼女は絞り出すように言った。
「……TPO――…」
嫌な予感がして、首だけ回して後ろを向く。
「―――やぁやぁ、マジでごめんて。もうちょい気づかれなければいいとこ見れたのに。なぁ?」
「ねー」
そう楽しげに話す土井らを睨み据え、僕は思わず彼女の頭を浴衣の袖で覆い隠した。今の彼女の表情がどうしてもかぐわしくて、僕以外の男に、いや女にも、一瞬でも見せてしまったら壊れてしまうと思われたから……
「いつから」
「今ちょうど来たとこ」
「ふ―――――ん」
「なげぇなぁ、おい」
土井には気まずいとか申し訳ないだとかそんな感情を、感じてほしいわけでもないが一切持ち合わせていないらしい。
土井がそうならガールフレンドもそうだ。
僕は、ゼロ距離で小突き合っている男女に、しっしっと手を振った。
「もういいよ、わかったならさっさと散ってくれ」
「はいよ」
土井は軽く答えてガールフレンドと腕を組んで、僕と彼女の横をゆっくり通り去っていく。
僕はその男女に彼女の姿が見えないように隠し、早く消えてくれと願う。
道が一本しかないこのホテルの構造を、このときばかりは恨んだ。
背中さえやかましい2人が角で見えなくなり、エレベーターの扉が開閉する音を聞き届け、足音がその箱に消えてから、数秒。
僕の腕に包まれて僕の胸に顔をうずめている彼女の息を、無性に近くで確かめたくなった。彼女を解放して、知らず知らず力を入れて頭を押さえつけてしまっていたことに気づく。
両手を彼女の肩に置いて、乱れた呼吸をする彼女を見つめた。
「……痛かったですか」
彼女は、僕と目を合わせずにふるふると首を振った。
赤い顔と涙を潤ませた目が、僕の理性を溶かしていく。濡れた髪から香るとろりと甘い匂いが劣情を誘う。
彼女の顔には濡れた髪が数本張りついていた。
それを整えてやるために伸ばした指さえ、彼女は敏感に警戒した。
それがなんともいじらしくて、もうちょっといじめてやろうという気を起こしたのがいけなかった。
今後一切、後に引けなくなった。
2章↓
https://note.com/shizu_iris/n/nf64f60cdcd9e