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不放逸であること

ホームさんの仏教講座。
1年半ほど前からずっと受講させて頂いています。今年の6月からはタイのお経を勉強しています。

お経シリーズの第9回目を少しだけ視聴。最初の方に「不放逸」についてお話がありました。
学びになったので、少しだけ🤏

この不放逸であること。
私は2年前にご法話で聞いてから、ああ仏道ってこれやんな、みたいな。不放逸大好きなんですよね🤭
象の足跡🐘
とかって表現をされるんですよね。
象の足跡より大きな足跡🐾はないので、すべて含まれているとか。そんな意味。
そう、すべての仏道修行が、かな?この不放逸というものに包括されている。
ということだと思います。

私の今までの不放逸の印象は、
「今、ここに気づいていますか?」
という感じだったんですけど、ホームさんがこの度教えてくださったのは、それともう一つ。

「変化を受け入れる準備ができていること」

でした。
そうだ、私はこれできていない!😂
これは、よい変化にしろ、悪い変化にしろ、です。

すべてのものはうつろいゆく

そう、ご法話などでいつもお聞かせいただいているのに、常に放逸がつきまとっているうつろいゆくものに驚き、、
この常に放逸がつきまとっている、という表現。新鮮でした😂いつも思い出そうと思います。
SNSを見ていても、人間関係にしても、社会情勢にしても、そうですよね。
でも私はそのうつろいに対して、抵抗したり不満だったり不安になったり、、するんですよね😊

いつも不放逸でいられる人物は、仏陀、阿羅漢、と言われる方々で、完全な悟りを開かれた方々。
まさに仏道の目指すはここでしょうと思います。
この悟りを完全に開かれた方々は、すべての行為が智慧と慈悲の行為なので、業にならないとお聞きしたことがあります。
このような方々は、すでに智慧と慈悲が備わっているのだ、とお聞きしました。
自己中心的な行為が一つもないんですね。
すごいと思います😊
こんな表現しかできない私に慈悲を😂🍀

でも凡夫な私たち🙏
私たちは、外側のものによって、やる、やらないを(行為)をいつも決めている。
私がやりたいから、これが必要だから、誰かに言われたから、やるんです。
おお、そうだな〜って。
もしその行為が、智慧と慈悲からの行為であれば、業は生じない、んでしょうね。そこで本当に完結すると言いますか、終わるんでしょうと思います。

ですから、悟りを開いていない私たちは、放逸である、うっかりしてしまうことは、いつでもあり得ることなんですよね。
ちょっと前までは、そんな自分が悔しくて情けなかったり。でもこの思い、子どもを見てると感じます。一人でできないことが多い子ども。できないことが悔しい、悲しいと、泣くんです。
ああ、私もそうだよ〜って、共感してあげよう。
できなくて当たり前が、納得できずわからない私。負けず嫌いでずっと不放逸でいたいと望む私。
そんな私だからこそ、修行を続けます。
世間のことに関しては少欲知足は大事ですが、仏道修行に関しては、満足しないでさらに精進していくこと、これが大事だといつもお聞かせいただきます🙏

そんな私自身に慈しみの心を向けつつ、不放逸であることに日々精進していけたらと思ったのでした🙏

生きとし生けるものが幸せでありますように

#最近の学び

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