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生きる意味がわからない のは問題か?

先日、記事の中で、生きる意味が分からないのは洗脳のためと書きました。

自分には価値がないという恐怖の前提のもとで、生き延びるために自由を捨て、喜びを諦め、必死に他者の物差しに合わせて生きる。

それがほとんどの人の姿です。そりゃー、生きる意味を問いたくもなりますし、その頃にはすっかり感覚が鈍っているという悲劇が生まれています。

「自分には価値がない」という悲惨な前提から、「働かざるもの食うべからず」なんていう間違った強固な「常識」が作られています。

これ、言い換えると、「人の役に立たない奴は生きてる資格がない」ってことですから。

このような世間で「常識」とされているものが、社会を歪めていることは少なくないと感じています。しかも、価値観の根幹に関わる部分で。

たとえば、「わからない」もそう。

わからないことは、悪いことと思っていませんか。

そう言う私も若い頃は、頭の良さが自分の価値などと思っていたので、ひどいものでした。

学校で先生に指されて、分かりませんと言うのは恥だと思っていました。

会社でも上司から何か聞かれて分かりませんと答えたら能力がないと思われると思い、わからないことが怖くて仕方がありませんでした。

誰かに「そんなことも分からないのか?」と馬鹿にされた日には、とても平静ではいられませんでした。

そんな感じですから、いつも必死に頭を働かせて思考し、先回りして隙のないように備えることが癖になります。

そんなふうに思っていると、生きる意味が「わからない」というのも大問題であるように思いがちです。

でも、本当はわからないことには、たくさんギフトがあります。

わからないと諦める、つまり、手放すことで、思考を超えた感覚が開き、人間本来の源である大きな存在とつながる回路が開きます。

そもそも人間のちっぽけな左脳でわかることなど知れています。この複雑な社会を損得勘定で生きようとしてもうまくいかず、しんどいだけです。

思考で頭をいっぱいにするのをやめて、「わからない」を受け入れると、心に余白が生じ、感覚が蘇ります。空の青さ、広さに気づいたり、風に揺れる樹々の形、路傍の花の可憐さにハッとするかもしれません。

感覚が蘇れば生命の躍動感を感じ、生命エネルギーが流入してくるので、生きる意味なんか考えなくても、楽しくしっかりと生きることができるようになります。

昨今の世の中、「常識」なるものがよりよく生きることを阻んでいると思い、さまざまな当たり前を「それは本当か」と吟味してみることをおすすめします。

今日も読んでいただき、ありがとうございました。


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