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深海よりも暗い、湿った夜明け前が来た。

 足が勝手に動いていた。
 闇夜に妖しく光る、自動販売機。その前に、紫色のペストマスクが置かれている。
 拾って被ろうと、俺は手を伸ばした。
 視界の隅に、2足のハイヒールを捉えた。足先が、こちらを向いている。
 気になったので、体勢を戻し、俺はハイヒールのある左側に顔を向けた。
 そこにいたのは、紫色の豚のマスクを被った紫色のボンデージ姿の大女だった。
「準備をしろ、きたねぇバンビが!」
 豚のマスクの大女が、右手の鞭を泥濘んだ地面に叩き付けた。ひゅんっ、という空気を切るような鋭い音は、ぬちゅっ、という湿った土に飲み込まれるような情けない音となって消えた。
「始まるぞ」
 彼女のその言葉が合図だったのか、辺りの光が一気にピンク色に変わった。自動販売機も、街路灯も、部屋から漏れる光も、全てがピンク色に。
 気が付くと、豚のマスクの大女は姿を消していた。代わりに、濃紺色のコートを着、蝙蝠のお面を被った女2人が、俺を見下ろすように立っていた。
 俺が首を傾げた直後、
 にょりゅにょりゅにょりゅにょりゅにょりゅ……。
 頭から何かをかけられた。どろどろで、甘ったるい匂いのする液体だった。
 顔を上げる。
 濃紺色のコートを着た女達の左手には、280mlのペットボトルが握られていた。俺の頭頂部に向けられた飲み口から、涎より滑り気の少ない液体が流れ出る。ペットボトルに巻かれたラベルを見て、俺の身体を侵していくものの正体が分かった。葡萄味の濃いカルピスだった。
 ちゃ、ちゃ。
 2人の濃紺色のコートの女達が、ペットボトルを地面に捨てる音が聞こえた。
 俺は何も出来ず、目を瞑って危険で魅惑的な流れに身を任せた。
 に、ちょっ。
 少し冷えた身体の正面側に体温を感じた。初めは服に染み込んだ濃いカルピスで冷たかったが、時間が経つにつれ、徐々に温かくなっていく。
 に、ちょっ。
 今度は、背中側に生温い体温を。
 どうやら、前後から抱き締められているらしい。
 濃いカルピスとは違う、心地のよい甘い匂いが鼻腔を擽った。
 知っている。俺はこの匂いの正体を知っている。好きな子が横を通り過ぎる時によく嗅いだ。そう、シャンプーの匂いだ。
「はぁ……はぁ……」
「はぁ……はぁ……」
 首元と頸辺りから、喘ぎ声に近い呼吸の音が聞こえる。
 何だかもう、色々どうでもよくなった。ゆっくりと両腕を、前にいるであろう女の背中に回す。目を開ける気力すら失せた。
 ぬちゅ、にょにゅ、ににゅ……。
 前後にいる女達と俺が擦り合うように身体を動かす度、服を侵した濃いカルピスが喘ぎ声を上げる。
 股間に血が溜まっていくのが分かる。俺にはもうどうすることも出来ない。このまま、蕩けていくだけ。それでいいような気がした。
 くすくすくす……。
 笑い声のようなものが聞こえた。俺の前後にいる女達じゃない。もっと、遠くから。
 どろどろの粘液となりかけていた脳が冷え、凝固を始めた。
 目を開け、辺りを見回す。
 抱き合う俺達を囲うようにして、様々な動物のお面を被った人々がこちらを見ていた。
「きぇぇぇぇえええぇぇぇぇぇっ!」
 左横から、耳を劈くような奇声が聞こえた。
 振り向くと、濃紺色のコートの女が釘バットを振り上げていた。前後にいる女達とは、別の女だった。彼女も蝙蝠のお面を被っている。
 驚いて、俺は前にいる女を突き飛ばした。
「ぐぎぇっ!」
 振り下ろされた釘バットが、突き飛ばした女の脳天を叩き潰した。彼女が被っていた蝙蝠のお面が取れ、身体と共に地面へ落ちた。
 前にいた女を突き飛ばした勢いで体勢を崩し、俺の身体は後ろへ蹌踉めいた。
「うぐぇっ!」
 背後にいる濃紺色のコートの女越しに、何かに当たったのが分かった。彼女の手の力が緩み、その隙に俺は身体を前へ持っていって離れた。
 背後にいた女が地面に倒れ、視界に映ったのは、ピンク色の光を放つ自動販売機だった。500mlのペットボトルに入ったドクターペッパーの押しボタンがピンク色に光っていた。
 がこん、と自動販売機の取り出し口に何かが落ちた。
 ひゅんっ。
 再び振り下ろされた釘バットを避け、自動販売機の前で起き上がろうとする女の顔面を蹴り上げた。ごんっ、と鈍い音を立てて、彼女は後頭部を自動販売機の角に打ち付た。背後にいた女もまた蝙蝠のお面が取れ、地面に落ちた。
 根拠なんてなかった。それでも、これしかないと思った。俺は自動販売機の取り出し口に右手を突っ込み、冷たい何かを取り出した。
 バールだった。自動販売機からバールが出てきた。ドクターペッパーの押しボタンを押したら、バールが出てきた。
 奇声を上げながら釘バットを持って近付いてくる女の顎の下から、直角に曲がったバールの先端を突き刺した。
 彼女は釘バットを振り上げた状態で動きを止めた。にゅりにゅりにゅり、と蝙蝠のお面の下から赤黒い液体が溢れ出す。
 バールの先端を抜き、今度は左頬に突き刺す。
「がっ、ごぼ、ごぼごぼごぼ……」
 次から次へと、血が流れ出る。
 今度は右頬へ。
「がぼっ、ぼぼぼこぼぶっ……」
 最後に脳天へ。
「んぎぃっ」
 外れなくなったバールの先端を強引に抜き取り、彼女の頭の肉が少し抉れた。
 3人の死体を見下ろす俺を、動物のお面を被った人々は無言で見ていた。先程までの楽しげな雰囲気は消え、湿った空気は恐怖と緊張でびんびんに張り詰めていた。
 視線を落とした。
 紫色のペストマスクと目が合った。
 もう、望みはこれだけのように感じた。
 どうか、俺を、この街を、湿度の高いピンク色から救い出してくれ。
「お前が救え」
 どこからか声が聞こえた。
「乾いた悪には、湿った制裁を」

*

 至るところから、呻き声が聞こえる。啜り泣くような声も少し。
 辺りを見回す。ペストマスクを被っている所為で、視界が狭いし、息もし辛い。
 あれ程ピンク色を放っていた光は、いつの間にか元の色に戻っていた。光に照らされて、動物のお面を被った人々が地面に転がっていた。身体のどこかを抑える者、ぴくりとも動かない者、その近くで膝を抱えている者……。
 右手のバールは、血と肉片で赤黒い色に染まっていた。満足そうに、鈍い光を放っている。
 ドクターペッパーが飲みたくなってきた。
 小さな悲鳴が聞こえた。
 声のした方を見ると、灰色の防護服を着た人間がホースから流れる液体を死体にかけていた。びしょびしょになった死体は徐々に液体となって、地面に染み込んでいく。
 深海よりも暗い、湿った夜明け前が来た。



【登場した湿気の街の住人】

・ペストマスクの男
・豚のマスクの女王様
・濃紺派魔女
・死体掃除屋、「廃」

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