首狩り屋。
「湿気の街」のドヤ区域。
道の脇は、小便臭い湿った地面の上にブルーシートを敷いて商売をする人々で溢れ返っている。
俺もその中でブルーシートを敷き、エロ本を並べて胡座を掻いている。
日雇い労働者と生活保護受給者、ホームレスが多く住むこのエリアでは、100円単位の金でも価値がある。
「これ」
「300円」
道行く人々が商品を手に取り、好みの本を選んで買っていく。
日が傾き出した。そろそろ終わりにするか。
エロ本を片付け始めていると、
「あの」
弱々しい声で話しかけられた。
顔を上げると、そこにはシルクハットを被った自信のなさそうな表情の男がいた。
「何? 何か買う?」
俺は仕舞おうとしていたエロ本を再びブルーシートに並べようとしたら、シルクハットの男がすっと右手を差し出した。彼の手には、真っ黒な干涸びた林檎が握られていた。
俺は無言でそれを受け取ると、彼にリュックサックから取り出した1冊のエロ本を渡した。
「……中に、紙がある」
そう俺が小声で言うと、シルクハットの男は無言で頷いてエロ本を受け取り、日雇い労働者達の波に消えていった。
シルクハットと上下黒色のスウェット姿のミスマッチ感が、周りとは違う自分を見せたいこのエリアの住人らしいと思った。
*
ドヤだったと思しき、2階建ての廃墟。
2階の角部屋で、煙草を吸いながら本日の客を待つ。
ちょうど2本目を吸い終わる頃、建て付けの悪い木製のドアの開く音がした。
振り返ると、ドアの前にシルクハットの男が立っていた。
エロ本に挟んだ紙に書いた場所、時間通りに彼はやってきた。
俺は顎で脇にあるベッドを示すと、シルクハットの男はびくびくしながらそこへ腰かけた。
「……ある男を殺して欲しいのです」
震えた声で言う彼の顔は、シルクハットのツバに隠れて見えない。
「同じドヤの同じ部屋に住む男で、とにかくうるさくて何かに付けて私を」
「そういうのはいい」
俺は彼の言葉を遮ると、3本目の煙草に火を点けた。
「場所と殺害対象が部屋にいる時間帯。俺が聞きたいのはそれだけ。お前の人生に興味ない」
シルクハットの男は「すみません」と怯えた声で謝ると、素直に質問に答えた。
「じゃ、前払い」
俺は右手を差し出す。
シルクハットの男は俺の右掌に、3つの林檎を置いた。からからに干涸びた、黒色の果実。
「毎度」
吸いかけの煙草を床に落とし、靴の先で揉み消した。
さ、仕事だ。
*
木製の廊下を進む。
ぎぃ、ぎぃ、ぎぃ……。
歩く度、今にも折れてしまいそうな、悲鳴に近い音が鳴る。
廊下の両側には、鍵の付いていない木製のドアが取り付けられている。
ここのドヤの受付をしている、今にも死にそうな女には金を渡した。簡単だった。宿泊客ではない俺を、何も言わずに中へ通した。俺が何者か既に知っているのか、金さえ貰えれば何でもいいのか。
「うるせぇぞ!」
左側の部屋から男の罵声が飛んできたが、無視して歩き続ける。
「……ここなのです」
前を歩いていたシルクハットの男が足を止め、あるドアを指差した。
右側の奥から3番目
俺は無言でスライド式のドアを開けた。
*
そこは5畳程の部屋。
両脇には汚れたベッドが1つずつ。
ドアから正面に部屋を見て左側のベッドに、上下白色のジャージを着た、がたいのいい男が座っていた。
白ジャージの男は俺を見るなり、目を見開いて立ち上がった。
「お前誰だボケ!」
ドスの効いた声で怒鳴るまでは、威勢がよかった。白ジャージの男は顔を上げて、そのまま黙った。
俺は無言で彼を見下ろす。
白ジャージの男はぴくぴくと両端の口角を痙攣させたまま、ただ俺を見上げ続けていた。
それもそうだろう。誰もがそうなる。見飽きた光景だ。濃紺色の虹彩を持つ、2メートル程の巨体が突然自分の部屋に入ってきたら、誰でもそうなる。
どんなに威勢のいい奴だって、俺に勝てるとは思わないだろう。本能的なレベルで、生物としての敗北を認めてしまうだろう。
「目を見ろ」
俺の命令に、白ジャージの男は震えながら従った。心が拒否しているのに、身体が勝手に動いてしまうことによる痙攣か。
俺は両目で、白ジャージの男の両目をまっすぐ見た。逃さないように、瞳孔に針を刺すような視線を送る。俺は口を開くと、かちっ、とわざと上下の歯をぶつけて音を鳴らし、口を閉じた。
白ジャージの男の瞳から光が消えた。口を半開きにし、真っ暗になった目で俺を見ている。
「首を絞めろ」
白ジャージの男の両手がゆっくりと己の首へ近付いていく。いくら催眠をかけたとはいえ、人間には死というものに本能的な抵抗がある。彼の両手はぶるぶると震えていた。
「うぅ……」
胸の前で両手首をクロスさせ、白ジャージの男は自分の首を自分で絞め始めた。彼の手に力がこもるにつれ、彼の顔が紫色になっていく。
「うぐぇ……」
催眠と殺人請負。最高の組み合わせだ。自らの手を汚さず、汚れ切った仕事をこなす。
「うぐっ、ぐぐんぐぐ……」
催眠をかけ、殺害対象者本人の手で自らの首を絞めさせて殺す。不可能なことだと思われるかもしれない。死ぬ前に気絶して腕から力が抜ける、と。だが、俺には出来る。簡単に。
「力を緩めるな」
ドヤ区域に住む人々は、俺を恐れてこう呼ぶ。
「首狩り屋」。
「うぐぐぅ……」
ふいに、白ジャージの男が俺の後ろを見た。
驚いた。その数秒の間、彼の瞳に光が戻ったのだ。自力で俺の催眠を解いたのだ。
「……おっ、前、誰……だ……ボケぇ……」
彼の言葉に、俺は顔を横に向けて後ろを見た。
そこにいるのは、シルクハットの男。
彼を見て、白ジャージの男は「誰だ」と尋ねたのか? 白ジャージの男と同じ部屋で暮らしている筈の彼を見て。
「……は?」
シルクハットの男は微笑んでいた。幸薄そうな顔の彼の頬に、うっすらと桃色が浮かび上がっていた。思わず魅入ってしまうような、底知れぬ色気。
まずい、と思い、視線を即座に白ジャージの男に戻した。下ろしかけていた両手で、彼は再び自分の首を絞めた。
俺は必死だった。必死で、白ジャージの男を見続けた。何かが怖くて仕方がなかった。早く全てを終わらせないといけない気がした。
どさっ。
白ジャージの男は白目を剥いて、床に倒れた。
数秒間、俺は動かなくなったそれを見下ろしていた。
そして、はっとなった。
殺した後に気が付いても仕方がない。だが、まだ生きている奴がいる。真相を知っている者が。
俺は振り返った。
そこには変わりなく、シルクハットの男が立っていた。
だけど、何かが違う。
上下スウェット姿なのに、その立ち姿はまるでスターのよう。あれ程ミスマッチだったシルクハットも、彼の一部と化していた。初めて会った時の自信のなさそうな彼とは明らかに違う。異様なカリスマ性を放っていた。
シルクハットの男は首を傾けた。
俺が何を聞きたいのかは、もう分かっているのだろう。
彼の両側の口角が、裂けんばかりに吊り上がった。
「……私の人生に、ご興味ないのでしょう?」
【登場した湿気の街の住人】
・首狩り屋
・シルクハットの男
・白ジャージの男
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