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湿度の高い濃紺色で。

 どぶの臭いと共に、肉饅を頬張る。

*

「湿気の街」。
 都内でここだけ年中湿度の高いことから、この街はそう呼ばれている。
 雨は降らないのにずっと曇り空、纏わり付く湿気、泥濘んだ地面、街を覆う憂鬱、俯き歩く街の住人。この街は圧倒的な灰色に支配されている。
 笑い合える程爽やかでもないし、狂ってしまう程壊れてもいない。
 そんな中途半端で不安定な街だからこそ、利用しようとする悪い人間が寄ってくる。憂鬱に押し潰されそうになっている街の住人は難しいことを考えるだけの余裕がないから、簡単に思い通りに操れてしまう。
 麻薬密売、カルト宗教への勧誘、人身売買、殺人請負……。様々な闇商売がこの街で幅を利かせている。街の住人は、闇の食い物にされている。
 俺は、そんな彼等を……。

*

「どうアル?」
 どぶ臭い路地裏。正面に立つ街路灯が辺りを照らし、濃紺色の烏と紫色の蛙の鳴き声が湿った夜を賑やかにする。
「美味しいアル?」
 室外機に座って肉饅を食べる俺の顔を覗き込むようにして、隣に座るチャイナ服を着た少女が尋ねた。
「うん。美味しい」
 いつも通り、人間の体温みたいに生温くて。
 そう答えると、チャイナ服の少女は嬉しそうに頬を赤らめた。童顔だから、小さな子供が褒められて照れているように見えて可愛い。
「へへ、よかったアル」
 彼女は、バイト先である肉饅屋の肉饅を無料配布する少女、「肉饅乙女」。彼女の肉饅を貰った日から仲良くなった。
 最後の一口を食べて、煙草に火を点ける。
「ふぅー」
 この時間帯に路地裏で煙草を吸っている時が、一番落ち着く。以前、友達に言われたことがある。「それは自分に酔っているだけだ」って。そうやって言われた時は何だかちょっと不快な擽ったさを感じたけれど、今となってはどうでもいい。気持ちよければそれでいいんだ。この街にいたら、いつ命を落とすか分からないのだから。
 煙草の火を足で揉み消し、格好付ける為にやった行為に対するちょっとした罪悪感と共に立ち上がる。
「今日も行くアル?」
 肉饅乙女が少し寂しそうに、身体を左右に揺らしながら尋ねた。
「うん。ご馳走様」
 肉饅乙女に背を向け、右手に持ったバールを振り回しながら、路地裏を歩き出す。小汚い室外機、窪んだ配管、切れかかった電飾看板、羽虫が集まる街路灯……。廃れた景色が通り過ぎ、廃れた景色がやって来る。
 湿った闇夜に紛れて、俺は濃紺色のペストマスクを被った。
 闇の食い物にされようとしている、街の住人を、救う為に。

*

 表通りを歩く。
 両側に立ち並ぶ錆と黴だらけの建物の間を、街の住人が俯き歩いている。1人1人が例外なく、重たい憂鬱に押し潰されている。互いの肩がぶつかり合おうが、互いに一切反応を示さない。皆、自分のことだけで精一杯なんだ。歩いているだけで死にそうなんだ。
 俺も彼等の間を縫うようにして歩く。
 真っ暗な視界の中でも歩き続ける為、彼等は「深海魚」とも呼ばれている。
 そして、元々俺も深海魚だった。
 俺も同じように俯きながら街を歩いていたら、路地裏で濃紺色のペストマスクに出会った。居酒屋の2階部に取り付け垂れた電飾看板に括り付けられた首吊り用の縄。首を入れる為の輪に、濃紺色のペストマスクがすっぽりと収まっていた。
「お前が救え。青く救え」
 濃紺色のペストマスクにそう言われた気がしたあの日が、この街の救世主になるきっかけだったんだ。
「嫌だ! 助けて!」
 ほら、聞こえた。ペストマスクの救世主を求める声。

*

「いいじゃないのぉ。1本だけでも頂戴なぁ」
 路地裏に、色気のある女の声を必死に出そうとする男の声が響く。
「い、嫌! あっち行って!」
 その後に続く、少女の叫び声。
 声のする方へ、急ぐ。
 妖しく光る自動販売機。その前に2人の人影。
「いいじゃないのぉ」
 まず目に飛び込んできたのは、ぎらぎらと輝く紫色のタイトなドレスだった。そのドレスを短髪の中年男が着ていた。両耳に紫色の宝石のようなピアスを付け、紫色のヒールを履いた全身紫色塗れのおじさんだった。
「ちょっとだけよぉ」
 左手に握った大振りの鋏を、ばちんばちんと開閉しながら、正面に座り込む少女に近付いていく。
「嫌! あっち行って!」
 紫ドレスの男に近寄られる度に後退りする少女は、子羊のお面を被っていた。彼女は体格的に小学生高学年~中学生1年辺りに見えたが、巨乳だった。
「何してるの?」
 紫ドレスの男に背後から話しかけた。彼は一瞬びくっと身体を震わせると、ゆっくりと振り返った。眉、目の周り、頬、唇まで紫色に塗りたくられていた。怪物みたいだった。
「ちょっ、驚かさないでよぉ。救世主さんじゃなぁーいぃ」
「おほほ」と口に右手を当てて、微笑む紫怪物。
「何してるの? って聞いてるんだけど」
「そんないらいらしないのぉ」
 近所で会話をするおばさんの如く、右掌をこちらに向け、ぺこりと一礼するように全ての指を倒した。
「イケメンさんが台無しよぉ」
 ペストマスク被ってるから、顔見えないでしょ。
 ばちんばちん、と下ろしていた左手で持っている鋏を、再度開閉した。
「私のお店のお客さんに人気なのよぉ……少女の指」
 そう言うと、突然こちらに背を向け、恐怖で動けなくなった子羊のお面の巨乳少女の元まで走っていった。そして、彼女の右手を手に取ると、鋏を小指に当て、
 がきゅ……。
 紫ドレスの男の後頭部に躊躇なく、俺はバールを振るった。鋏を落とし、地面に倒れた紫ドレスの男の鼻へもう1発。折れた鼻から鼻血が流れ出る。泣き叫ぶ紫ドレスの男。もう1発鼻へ打ち込む。分かり易く鼻が変な方向へ曲がる。絶叫する紫ドレスの男。次は右目、次は口、次は左頬……。顔のあらゆる部位へバールを振り下ろしていく。
 気が付くと、紫ドレスの男の顔面は血と涙と涎と窪みで滅茶苦茶になっていた。
 大丈夫。殺してはしていない。ちゃんと息はある。一時期は自分の暴力に酔いしれて、殺すまでバールを振るっていたこともあったが、今はきちんと自制が効くようになった。
「もう大丈夫だよ」
 そう言って、子羊のお面の巨乳少女の方に目をやったが、もうそこには誰もいなかった。
 どぶ臭い路地裏にある自動販売機の光に照らされて、僕と紫怪物のみがその場にいた。
「糞っ!」
 取り合えず、顔面が本当に化け物みたいになった紫ドレスの男の脇腹に一蹴り入れた。
「いやん」
 足元から不快な声が聞こえて、余計に気分を害した。
「お疲れ様アル」
 気が付くと、両手にアルミ缶を1つずつ持って、肉饅乙女が自動販売機と哀れな2人の間に立っていた。
「あぁ……お疲れ」
 肉饅乙女からコーヒーを受け取る。彼女はココアだった。2人してプルタブを開け、室外機のファンの回転音が響く路地裏を歩く。
 今日も街の住人を救済した。巨乳ちゃんには逃げられたけど、救世主として闇から救った。
 深海魚だった頃みたいに、また自分を見失わないように。
 そうか。多分、1番救われているのは……。
「止めて! 来ないで!」
 ほら、また聞こえた。ペストマスクの救世主を求める声。
 救ってあげるよ、湿度の高い濃紺色で。



【登場した湿気の街の住人】

・ペストマスクの男
・肉饅乙女
・子羊のお面の巨乳少女
・路地裏スナック、「乙」の店主

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