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肉饅乙女。

「1個だけでいいネ。1個だけでいいから配りなさいネ」
 薄暗い路地裏。
 中華料理屋と餃子専門店に挟まれた横幅2メートル、奥行き5メートル程の空間。1番奥まで行くと、左手の壁には、赤提灯が1つと、3席しかない小さなカウンター席。
 店の中から赤色のチャイナ服を着た男がこちらを睨む。
「1個だけでいいのネ。肉饅を無料で渡せばいいのネ」
 今日もきつい目付きとちょび髭がむかつくけど、彼に逆らうことは出来ない。
「そうだネ。こうしようネ。今日中に肉饅を1つも配れなかったら、『肉饅乙女』の名を剥奪するネ」
 彼は肉饅屋、「挽」の店主なのだから。
 店の奥から、弱々しい呻き声が聞こえた。
 
*
 
「私と肉饅食べてアル」
 赤色と金色を基調とした建物、どんなに薄気味悪い路地裏でさえも輝かせる赤提灯、飛び交う片言の日本語、道を覆う真っ白な煙。
 年中湿度の高い街、「湿気の街」には、煌びやかな中華区域がある。
「私と肉饅食べてアル」
 鬱々としたこの街では珍しく、私の声は街の賑わいで搔き消される。
 中華専門店が乱立したエリアは、この街で1番と言っていい程、活気に満ち溢れている。
 湿気の街の住人の多くは、憂鬱に圧し潰されて俯き歩くから、この区域にいる人の半分近くはきっと観光客だろう。
 私の仕事は、勤めている肉饅屋、挽で作っている肉饅を配ること。店長の挽さん曰く、1度食べたら病み付きになるんだそうだ。
 働き出して3年、店長から肉饅乙女という通り名を貰った。誰にも相手にされない街で、誰かに何かを貰えることが嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。
 でも、今日次第で、私はその名前を失ってしまうかもしれない。
『今日中に肉饅を1つも配れなかったら、肉饅乙女の名を剥奪するネ』
 挽さんのやけに高い声が耳にこびり付いて離れない。
 決して、挽さんが好きとか、尊敬しているとか、そんなのじゃない。1度貰ったものを手放すことが嫌なのだ。寂しい気持ちになるから。
「私と肉饅食べてアル」
 俯き歩くサラリーマン、暗い顔をした風俗嬢、イヤホンで音楽を聴きながら歩く少年、カメラで街並みを撮影する男……。
 色んな人に声をかけたけど、誰も受け取ってくれなんかしない。それどころか、気持ち悪いものを見るような目で、私を見ては通り過ぎていく。
 こんなに比較的明るい区域でも、みんな必死なのか。自分の人生に。
「そこの美人さん2人組、餡饅なんてどうかな?」
 爽やかな男の声が聞こえ、そちらを見る。
 そこには、身長185センチ程の、濃紺色のチャイナ服を着た男がいた。人で賑わう道の真ん中で、女2人組に声をかけていた。
 女達はお互いに顔を見合わせ、にやにやしている。それもその筈。男は精悍な顔立ちをしているから。顔のパーツ1つ1つが彫刻のようにしっかりとした形をしている。綺麗に整えられた短髪は清潔感で溢れ、聞き心地のいい低い声が女達を更に虜にさせる。筋肉質の腕で、あの高身長で、抱き締められた日にはきっと溶けてしまうとか思っているのだろう。だけど、私には彼の魅力が分からない。太い腕に浮き出た血管が気持ち悪いとさえ感じてしまう。
 きゃーきゃー叫んでいる茶髪の女2人に、男は爽やかな笑みで餡饅を1つずつ渡した。
「えーいいんですかー?」
「頂きまーす」
 女2人は嬉しそうに餡饅を1口食べた。熱そうに咀嚼をして、飲み込む。
 男の笑顔が不快だった。
 彼女達は、これから自分がどうなるのかを知らない。いや、知らないままきっと終わってしまうんだ。
 女達は急に静まり返ると、顔を高揚させた。目はとろんと溶けてしまうそうな程に潤んでいる。
 ほら、堕ちた。
「じゃあ、行こうか」
 男の低く爽やかな声に頷く女達。男を先頭に、彼女達は人混みの中へ消えていった。
 彼の名前は「餡饅悪漢」。
 名前の通り、餡饅屋さんで働く悪い男だ。爽やかな見た目を乱用し、中華区域に遊びにきた女達を自分の店へ連れていく。その後、彼女達は……。
 そうか。見た目を使えばいいのか。
 私だって見た目に自信がないわけではない。可愛い系の顔をしているとは思う。童顔に言い寄られて嫌になる男なんているのだろうか。
 そうだ。観光をしに来た男を重点的に狙えばいい。それだけのことだ。餡饅悪漢と同じにされるのは嫌だけど、私は彼みたいに悪い女ではない。「肉饅悪女」なんかじゃない。肉饅乙女だ。
「私とぉ、肉饅食べてアルゥ」
 その後は遊びにきた男にターゲットを絞って、肉饅を配ることにした。なるべく甘い声を出して。男が振り向いてもらえるように。
 女の魅力なるものを、チャイナ服の内側から最大限に醸し出して。
 
*
 
「私と……肉饅……食べて……アル……私と……」
 すっかり辺りは暗くなっていた。
 23時14分。
 提灯や電飾看板でまだ中華区域は明るかったが、通行人は少なくなっていた。半分以上の店が閉まっており、今日が終わってしまうという寂しさだけが残っていた。
 喉ががらがらになりながらも、肉饅の入ったリュックサック式蒸し器を背負って夜の路地裏を歩いていた。
 結論から言うと、1つも配れなかった。
 男共は変なものを見る目で私を避け、陰口を叩きながらどこかへ行ってしまった。
 分かっていた。私に何が足りないのかを。
 笑顔だ。
 それを補う為に、甘い声を使ってみたけど、どうしても男には響かなかったらしい。笑えないだけで、こんなにも人は人を避けるものなのだろうか。
 1時間もしないうちに、私は私でなくなってしまう。肉饅乙女はまた別の少女の手へ渡ってしまうのだ。挽さんのタイプである、童顔少女の手へ。
 それでも笑えないのだ。笑みを浮かべる方法は、私にも分からなかった。いや、分かってはいるような気がする。感覚的には分かっているのに、その方法が明確に頭に浮かばないのだ。もどかしい。いや、気持ち悪い、の方が感覚的には近い。
「もう、駄目アル……」
 私は疲れと絶望感と寂しさで、その場にへ垂れ込んだ。顔を下げ、目を瞑る。耳の感覚が少し鋭くなる。
 室外機のファンの回転音、濃紺色の烏が塵箱を漁る音、シャッターを下ろす音、誰かの足音……。
 足音はゆっくりとこちらへ近付いてくる。観光客か。私をアンダーグランドな街の景色の一部にして、そのまま通り過ぎるのかと思っていた。
 私の前に来た時、足音は止まった。
 視線を感じる。頭上から2つの目が私を見ている。見なくても分かる。頭の中で、室外機の横に座り込む私と、それを見下ろす謎の人影を客観的に想像出来た。
「一緒に食べるのヨ、君」
 静寂がうるさい路地裏で、その言葉だけが異質なものとして耳に届いた。
 思わず、両手を握った。身体から力が抜けるような、それでいて、踊りたくような感覚に襲われた。
 ずっと待っていた言葉だったと気が付いた。
 肉饅を食べてくれる相手を見付けた、とかそんなのじゃない。その言葉自体を私は求め、待っていたのだ。記憶の中の私が一斉に私を見た。
 さぁ、今だ。今なんだ。だって、そこにあるじゃないか。私が心から笑顔になれる理由が。
 顔を上げて、そのまま止まってしまった。
 目の前に顔があった。やけに縦に細い顔。死んだように光のない瞳と、細い目、青白い顔。彼の口を覆う白い布製のマスクには「針」と黒い文字で書かれていた。
「……誰……アル……?」
「君の肉饅を食べたいのヨ、私は」
 黄ばんだ白衣を着た男は、針のように細い目で私を見続けている。
 違った。言葉じゃない。言葉だけを待っていたわけじゃないんだ。彼じゃない。違い過ぎる。
「これはね、取引なのヨ。簡単な取引なのヨ。君の肉饅を食べさせてもらう代わりに、私のマッサージを受けて欲しいのヨ」
 まずい奴に話しかけられたのは感覚的に分かった。どの街にも闇があるように、この中華区域にもよくない商売で稼いでいる奴はいるのだ。
「あそこのお店で、無料なのヨ」
 彼の後ろには、黒文字で「針」と書かれた白く発光する電飾看板があった。その看板の近くにはオレンジ色の光が灯る、薄汚れた2階建ての建物が不気味に佇んでいた。
「これは……この肉饅は、無料アル」
「違うのヨ。私の気持ちなのヨ。美味しい肉饅を食べさせてもらうお礼なのヨ」
 駄目だ。違う。行ってはいけない。これで渡せれば、肉饅乙女の称号を得られるけど、乙女ではなくなってしまう。
「大丈夫アル……いらないアル……」
 ぷすっ、と脳天に程よい痛みが走った。
 白衣の男に何かを刺された。言わずもがな、針だと分かった。細く、鋭い異物が頭に突き刺さっているのが痛覚で判断出来た。
「ちょ、止めっ……アル……」
 身体が動かなかった。力が入らない、と言うより、感覚がない、の方が近かった。まるで自分の物じゃないみたいに。意識だけがそこにあるような。
「そんなに遠慮するなら、ここでマッサージを施すのヨ。病み付きになるのヨ。私の『針マッサージ』は特別なのヨ」
 ぷにぃ。
 次は右肩に針を刺された。身体の中を何かが駆け巡る感覚。次は左肩。身体が熱くなっていく。同時に右膝、左膝。何だか、むずむずし始めた。
 よくないことは分かっていた。分かっているのに、抵抗する意思が弱まっているのは何故だろう。
「これで全身に薬が回ってきたのヨ。身体が熱くて、頭がほわほわ宙に浮いているような気分でしょうヨ」
 白衣の男の言う通りだった。今までに味わったことのない、むずむずした気持ち。早く解放したいもどかしさが気持ちいい。……気持ちいい?
「お次はここなのヨ」
 白衣の男は左手の人差し指で、右胸辺りを指した。
「敏感な神経が詰まってるのヨ。ここからが本番なのヨ」
「い、嫌、あ、あ、あ、あ、あ、アル」
 上手く喋れない。口まで感覚がなくなってきている。
「じゃあ、いくヨ」
 白衣の男の右手で、細くて鋭い光が路地裏の闇を切り裂いた。 
 駄目。駄目駄目駄目駄目駄目駄目。
 抵抗しようにも、なす術がなかった。針の先端が私を見ている。にんまりと鋭い笑みを浮かべて、私の右胸に……。
「だ、駄目、アリュ」
 ぷすっ。
 抵抗の余地なんてなかった。
 針はブラジャーを突き通り、乳首の先端を刺激した。
 びくん。
 身体が反応する。その意味を理解して、虚しさと悲しさと怒りと快感で、涙が零れてきた。
「泣く程気持ちいいのヨ。分かるヨ。私も沢山、父に教わったのヨ」
 ぷすっ。
 今度は左乳首に。
 びくんっ。
 先程より、更に激しく身体を仰け反らせる。
「じゃあ、最後はここなのヨ」
 目を瞑った。それでも大概の予想は付いていた。最後、針がどこを侵すのか。犯すのか。瞼だけでも動くのが、唯一の救いだった。
「いくのヨ」
 針がパンティを破り、その先へ……。
 がごっ。
 鈍い音が響いた。
 針はこれ以上、刺激しては来なかった。
 恐る恐る目を開ける。
 白衣の男が地面に転がり、泥塗れになっていた。白衣の男の先には、2本の脚。
 目だけで、上を見た。
「一緒に食べよ」
 濃紺色のペストマスクを被った男が、私を見下ろしていた。彼の右手には使い古されたであろう、変形したバールが握られていた。
「あ、大丈夫だよ。殺してない殺してない」
 再び、涙が溢れそうになった。薬を投与されていなければ、今頃抱き付いていた。最大限の力で、彼の腹を私の顔の形にしてしまうぐらいに。
 動かない筈の表情筋が自然に動いた気がした。
 きっと傍から見たら、ただ彼を見上げているだけかもしれない。それでも私は、全力で微笑めていた。
「わ……私と、肉饅……食べて……あ、あ、あ、あ、あ、アル」
「うん、だから食べるって」
 23時49分。
 肉饅乙女でも、肉饅悪女でもない。
 私は乙女だった。



【登場した湿気の街の住人】

・肉饅乙女(チャイナ服の少女)
・肉饅屋、「挽」の店長
・餡饅悪漢
・マッサージ屋、「針」の店主
・ペストマスクの男

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