いくつになっても綺麗で居たい中年V系

現在48歳、言語性120の運動苦手(動作性100)、発達障害当事者(ASD>>ADHD)二次障害の「双極性障害」が酷い。大腸がんサバイバ(切除済、再発なしだが後遺症で普段は寝たきり)。現・在宅ワーカー。元SE。

簡単な自己紹介

はじめに

双極性障害と診断が付いて長いこと、まともに就労できなくなり、もう世間に関わるのは無理だと諦めて生きてきた。おもな収入源は障害年金だけ。実家なのでギリギリやってこれたが、「生きてるので精一杯」だった。

しかし、昨年秋ごろ「完全在宅で人と関わらないマイペースな仕事」に恵まれ、生活プラス、趣味などに回せる経済的余裕ができた。貧すれば鈍する、というが、余裕が出ると「(経済的束縛ぬきで)自分が本当にしたかったこと」が見えてくるようになった。

今年に入り、ストイックに仕事を頑張っていたら、ちょっとした貯金ができた。障害関係者なら分かると思うが、当事者がお金を貯めるというのはかなり過酷で大変なことだ。まず就業が難しく、続かず、給与も低い。それに当事者はお金の管理が苦手だったり、症状や治療に入り用であまり残せない。

だが私はこの半年、障害者にしては本当によくやって、以前は「お金がないせいで一攫千金ねらい」という理由で賭博依存だったけど、仕事が充実し、頑張ればお金になるので、賭博しなくて済む状況になった。だから貯金できたのだ。

けれど、季節の変わり目や、家族トラブルのストレスなどで、張り詰めたものが切れて躁状態に入り、また賭博依存が再発、浪費再開して貯金が半壊。これが7月たった1ヶ月でのことだ。

躁による喪失と、それでも見えてきたこと

本当に先月は酷いもので、最初は「余分にお小遣いあったらあれこれできるよな」というセコい欲求から賭博に手を出す。少し勝って調子にのったら負けはじめた。そのうち取り返しがつかなくなり、賭博自体が目的になった。

お金はどんどん消えてゆく。けれど、躁状態ってハイで、浪費しているストレスも一種、爽快ではあった。また、この渦中にいろんな方に相談してけっこう自分についての発見があった。

というのは、私は若い頃から、厳しくされた…というか元の性格のせいで、親の無言の期待に応えようと(あちら曰く「勝手にそうなった」そうだ)人生、我慢ばかりしてきたのだ。そこで、今回、思う存分に自分の金を無駄遣いすることは、まあ考えてみたら盗んだり借金したわけでもないので、わりと自然なことだと思えた。

普段やらないが、コンカフェなるところに飲みに行って女の子にぞっこんになったり、あるいは面倒になってお風俗のお世話になったりもした。ここでも気づいたのだが、私はどうも、聖書信仰が自分の「足かせ」のようになっていた気がする。

一時期、政治がらみで「宗教二世」というものが話題になったが、私の親友の一人も「エホバ二世」であり、幼少時から宗教の名の元に束縛され、それは傷ついたそうだ。ところが、私自身は「正統派プロテスタント」と呼ばれる聖書信者なのに、エホバ二世たちと非常に気が合う。理由は、信仰による束縛感が強いからだろう。

いまの私が、キリスト教会で、自分のしてきた「病気の症状としての(倫理的にみて)あまりよろしくないこと(賭博や風俗)」を堂々と話せば、やはり苦い顔をされる。というか話せるような雰囲気じゃない。そんな人間は来てほしくないかのような空気があるのだ。だから教会には所属していない。

でも聖書は本当は「そういうしんどい人たちへの救い(赦し)」を語っており、神である人イエスは、二千年ほど昔、地上に居た頃、今でいう反社とか風俗嬢たちと非常に「仲良し」で、一緒につるんでメシ食ったり酒飲んだりしていたのである。神本人がですよ?(聖書に詳しくない一般読者はこういうの知ってましたか)

イエスは血筋としてはダビデ王の末裔で、マリアという母が神によって身ごもったので、完全に人間の肉体を持って、ただ神による妊娠をしたので、神の性質を100%もっている。けど人間として暮らしたので大工仕事をし、今でいう口コミでフォロワが増えて、トー横界隈みたいな所で話題の人だったという事だ。

すげえ脱線した。ともかく、聖書がいう信仰とキリスト教会にはギャップがある。

人生も後半になり ようやく「したいこと」へ

私は大学時代に「自分から興味を持ってキリスト信仰を持った」わけだが、どうも後に教会という「人間が運営するグループ」に入ったのと、持ち前の生真面目さから、聖書のいう本質がアダとなって自責主義が悪化したようだ。

つまり、現代ではかなり多数の男女が恋愛するとセックスするのは自然なのに、恋人とそうしてしまう自分は「信徒として悪い」とか、病気で依存症になり、致し方ないのに賭博依存になった「自分が邪悪なのだ」と自責するようになった。

神が本当に言いたいのは「そういう弱さを持つ人類こそ救いようがなく可哀想なので、だから神イエスが十字架刑で命をかけてその罰を代理で受けた(原罪に対する赦し)」ということだ。神による罰はもう終わったので、自責しなくていい、と言っている。

しかし教会や世の中は「そういう奴は悪人だ」って空気があるので、私は人間として自然な欲求にまで「悪いものだ」と感じて苦しんで、それをしてしまうと自責ばかりし、しまいに自殺行為ばかりしていた。

たしかに風俗とかは「結婚」という自然な理想的なソレからズレてはいるが、といって神が生身で抱きしめてくれないし、障害者がすぐ結婚できるわけじゃないので、悲しくて仕方ないときに異性の温もりから慰めを得たい。というのは「生物、人類としては自然な欲求」だと思うのだ。賭博にせよ、他に満たされぬ部分が歪んだ形で心を穴埋めしたいことの現れだ。

賭博や風俗はさておき、そのように「したい放題」することを「自分に許容」し、そうしてしまう自分についてあまり自責しないように変化してきた。なので今の私は以前ほど希死念慮、自殺願望がない

また、それらは「一時的な穴埋め(行ってみれば麻薬患者が不健康な形で心を満たすのと同様)」だというのは、し尽くして痛感している。

このようなことを経て、また、今後どうなるか知らんが、まあ結婚も難しそうかな、と思うと、「もう残りの人生、人に迷惑かけない範囲で、自分なりのしたいことをし続けていいんじゃない?」と開き直りというのか、諦めというのか、達観みたいな感じになってきた。

醜形恐怖か。「いつまでも美しく在りたい」

じつは私は幼少期、非常に勉学が得意で(調べたらIQがわりと高い)学年1桁とかの成績だった。「勉強できる獅子くん」として、他の子供がなぜか私のことを勝手に知っていた。ただ ちびで痩せててスポーツ苦手という典型的ガリ勉タイプ。

自分でも、今のようになるとは予想だにしていなかったが、私はじつは「目立つ」「派手」「人前に出る」のが、どうも好きなようだ。

30前にインディバンドをし、続かなくなって音楽留学、プロ目指したが挫折して帰国。以降「人生を完全に諦めて、賭博依存、精神科に通い続ける」という、何も希望の無い生活をしていた。なので、外見も、安い古着ばかり来て飾らず汚くしていた。自分がどう見られるか怖かったのもある。

けれど、数年前、閉鎖病棟に入るほど躁が悪化し、その経験から「人というものが全く怖くなくなった」。小柄なので暴力などに恐れもあった。派手な格好などしてたら、絡まれるんじゃないかという不安もあった。

加齢も重なり、そういうのが吹っ切れてくると、結局、この年になっても「ロックでありたい」というのが自分の一番の願望だと思い至った。

私が憧れ、(それに本質的な価値や意味があるのかはともかく)いろんな影響を受け、時に励まされたり、元気をもらえたプロのロックマンたちも、今や高齢だが、幾つになってもカッコいい。

なので、人生を諦めかけていた私は、経済に少し余裕ができると、以前にもまして「堂々と派手な服装をしたり」「年齢気にせず髪をダラダラ伸ばしたり」「加齢に逆らって薄化粧などしたり(時代の流行もあって男の化粧がしやすい)」それも「人目を気にせず好き勝手に」やるようになってきた。

さっきたまたま、20代前半の「いい歳だけどギャルとかアイドルぽいキラキラさで居たい」って方の記事を拝読した。私など50前だ。背が低く160しか無いので、長髪も似合わないんだが、それでもロックギタリストといったら長髪なのだ。ライブでは化粧をするのだ。理由は、憧れの彼らもそうしていて、幾つでも格好いいからだ。

30代くらいまで、私は、小柄で痩せてるのもあり、10くらい若く見えたので自分ではイヤだった。職場でも社会でも「舐められやすい」からだ。初対面だと年下にタメ口されたり。今はさすがに貫禄が出て、男性ホルモンも増えすっかり男くさくなってきた。(当時は女装できるほど細く中性的だった)

さて困っているのが「若作り」が芸能面では有利だったが、さすがに今だとせいぜい5つくらいしかサバ読みも厳しい。(30代には見えない)
肌にシミ、シワ、ほうれい線。

躁の月になると、毎回、思ってしまい、行動もしかけるのだが、いま、頭にあることがいくつか。それは整形である。

私はとくに整形という行為を否定しない。だいたい化粧する時点で女性はそうとう変われるし、男の私ですらちょっとキレイに見える。私は漫画とかで育ったので「花形の存在はキレイ・格好良いほうがいい」という刷り込みがある。だから、天然に越したことはないにせよ、元をちょっと拡張するくらいは良いことだと思う。

お金がほしい、どこまでできるか

じつは私は自分の顔はわりと好きだ。文字で書くが、目は一重で、二重まぶたにすると「東南アジア系」になってしまうので似合わないと思う。(異常なまでの二重至上主義はどうかと思ってるし、男女とも似合ってれば一重でいい)

自慢めいて恐縮だが、人には好みもあり、私はすごくアジア顔であり、万人受けはしないまでも、幸い、これまで何名かの同性・異性ともに顔立ちは悪くないと評価頂いた経験がある。美男子ではないが、顔はデカくないし、鼻は自分でいうのもなんだが唯一、形がいい。口元はそう好きじゃないけど、歯並びが整っていて、親に感謝している。

ただ、今の流行の「さわやか感」はなく、昭和の男くさい感じ。キチガイなのでどこか野獣めいた雰囲気がある。西洋顔と対極の東洋顔。そして地味である。(恋人になった人などはそこが好きで褒めてくれたのでありがたかった)

顔の「余白」が多いので、いま考えているのは「目と眉の距離を近づける(西洋ぽい)」というプチ整形。頑張れば手が届きそうな金額。二重整形も勧められそうだが、似合わないと思うので要相談だなあ。

あとは頬骨が高く、顎周辺も余白が多いが、骨格いじりは大袈裟になるのと、国内では大変そうなので難しいと思う。(韓国にでも行けばいいのかな)

最後に、お金さえあれば身長を伸ばすことはやってみたい。躁の数年前は、アルメニアに行くことを本気で考えていた。(当時の有名な骨延長の国)近年、SNSで受けた男性が後遺症で大変だと見聞きしているが、そのリスクがあってもやはり脚は伸ばしたい。5cmでもいいんだ。理由はライブのビデオ見てると小さすぎるから。

べつだん、外見が全てでなく、過去に恋人ができたこともあり、こういうコンプレックスは「心の問題」であるとは理解できている。とはいえ、着られるものが限られてくるとか、ステージ映えしないとか、そういう面倒さは、お金でどうこうなるなら、対処してみたい。

少し脱線して、本当に有難いことに、「私のありのまま全体を全肯定して大事にしてくださる異性」も存在している。バンド時代の年長の女性友達だ。だが、その方は、職業上の理由や、「シンガーは常に美しくあれ」みたいな私の思想とは別で、実用主義なので、むしろ加齢を自然に受け止めて「おばさんだから」と名乗り、まあ自然に逆らう私と反対の考え方をされている。

なので、残念なことに私はその女性を異性としては強く愛することができない。あれこれ考えて気付いたが、私自身がこうなので、パートナーの美意識としても、加齢は加齢でなるべくキレイでありたいかたを好むようだ。

正直、道をすれ違う、知らない人々は、私みたいな「ちっさいオッサン」が小綺麗にしてようがどうでもいいと思うんだが、下手すると「きも」って思われるかもしれないが、日常はともかく、ステージでの私は「ステージ映えする」ので、私は誰がどうあれ、そういう自分を大切にしたいと、こんなジジイ手前でようやく気づいたらしい。

脱線が多く、まとまりの無い乱文だが、言わんとすることが少しでも伝われば幸いです。伝わらなかったらごめんなさい

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