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山の主がやってきたので

今年はまだ蝉の声を聞いていません(7月1日現在)。蝉には夏の蝉と春の蝉がいると聞きます。実際、毎年5月の中旬ごろ〜6月でも鳴いていることはあります。それで、あれ、もう蝉鳴いてるよっと毎年思うから覚えているのですが、今年はまだ聞いていないのをちょっと心配してます。ヒグラシは鳴いているようです。

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引っ越す前から虫とは仲良くやってきてつもりでしたが、この家での生活で、私は自分の無知をより一層思い知らされることになりました。Biophilia No.0 で、虫や生き物との暮らしについて綴ったのですが、それはまだ、綺麗事だったのかもしれない。人は人間世界以外の世界をあまりにも知らなすぎる。ということを私はどう自分の人生をかけて伝えるべきだろうか。そんな誰も求めていない重責を、この家の、山で暮らす全てから勝手に背負わされた。(というか頼まれてもいないのに、勝手に背負ったというのが正しい。)この庭にある、人間社会と、自然世界の境界線を跨いだのをあちらの長老に知られてしまったのだ!とドラマチックに解釈したのです。

しかし、なるべくオブラートに包んで語ろう。衝撃的な場面に出くわしたとしても、全てを明かすのは刺激が強すぎるかもしれない。とはいえ自分自身、だんだんどこまでが許容範囲となるかがわからなくなってきているかもしれません。Biophilia の時も 表現において、これはちょっと と、まったが入っていたが、それを貫くのが正しいのか、正しくないのかその判断は難しい。

・・山の主の話だった。龍のような背中の獅子のような頭の山の主である。脱衣所の端っこでチラリと見えた背中を見たときに、只者でないと感じたのです。そのあと山の主は洗面所にて姿を表すのです。あまりの大きさに驚きつつ、心の中で挨拶しました。だって、きっと私よりすっと前からここに居るに違いないのだ。穏やかでやさしく受け入れてもらったようだった。

あの山の主の出現の後は、驚くこともあるまい。もうこの家での暮らしから洗礼を受けることもないであろう。立派に卒業ができる気がする。と、その時は思ったのです。

野生とは過酷である。昨日キリギリスが台所の換気扇に果敢に向かってきている様子をドーターは見ていたそうです。キリギリスが勝てるとは思えない、そんなことキリギリスだってわかっているにちがいない。これには深い意味がある。壮大な生態系の物語だ。それは、人間の想像の範疇を超えたドラマである。しかし、そんなこととは知らずに、その恩恵に授かっていながらもそういうところには目を背け、「きゃー気持ち悪い!」と殺虫剤を「しゅー」ってしているのである。・・と言っても、なぜに、そうだからと言って、何故に換気扇にぶつかっていったのかは永遠の謎となってしまいました。ただ、最終的な原因は解けたということです。しかしどうオブラートに包んで語ればいいというのか。もう少し己のリテラシーを高めてから語るしかあるまい。昆虫好きならこんなもったいぶったなぞなぞのような話は「はは〜ん」と感ずづいていらっしゃることであろうと思います。


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