芥川龍之介「黄粱夢」の面白さ
芥川龍之介の「黄粱夢」という作品をご存知でしょうか。今回は、私が思う「黄粱夢」の面白さについて、できる範囲内でお話してみたいと思います。
はじめに、軽く梗概を述べます。
主人公である盧生は、自らの夢の中で「寵辱の道」や「窮達の運」をひととおり経験する。その夢から覚めた後、枕元にいた呂翁に「生きると云う事は、あなたの見た夢といくらも変っているものではありません。これであなたの人生の執着も、熱がさめたでしょう。得喪の理も死生の情も知って見れば、つまらないものなのです。そうではありませんか。」と尋ねられる。しかし廬生は、「夢だから、なお生きたいのです。あの夢のさめたように、この夢もさめる時が来るでしょう。その時が来るまでの間、私は真に生きたと云えるほど生きたいのです。あなたはそう思いませんか。」と返答し、作品は「呂翁は顔をしかめたまま、然りとも否とも答えなかった。」という一文で締められる。
短い作品なので、青空文庫版のリンク貼っておきます。よろしければご覧になってください。
人名が日本のものでない所からも薄々気付いていらっしゃるかもしれませんが、この「黄粱夢」には原拠があります。それが、沈既済『枕中記』です。以下に『枕中記』の粗筋を、Wikipediaから引用します。(今手元に『枕中記』に関する情報がWikipediaのものしかないのが悔やまれますが……)
主人公の盧生が、邯鄲で道士の呂翁に出会い、枕を授けられる。その枕で眠りについたところが、まだ粟の飯が炊き上がる前に、自分が立身出世を果たし、栄達の限りを尽くして死ぬまでの間の出来事を夢みた。それによって、盧生は人生の儚さを悟った、という話である。
こちらもWikiのリンク貼っておきます。
「黄粱夢」に登場する「廬生」も「呂翁」も、この『枕中記』の登場人物名と同じですね。
話を「黄粱夢」に戻します。先の『枕中記』を踏まえると、「黄粱夢」中で廬生が何故寝ていたのか、また呂翁が何故枕元に座っていたのか等の背景が少し明らかになりますね。恐らく「黄粱夢」では、『枕中記』中にある〈夢から覚める場面〉以降を採用したのでしょう。いや知らんけどな。たぶん。そして、『枕中記』のモチーフを素材として、芥川は「黄粱夢」を書きます。うん……結末部……結末部どうなんでしょう、『枕中記』と「黄粱夢」とでは終わり方が異なるのでしょうか……?Wikiにはあまり仔細がかかれていなかったので、これに関しては何とも言えませんね、言及を控えます。
で、まあそれはいいとしてですよ。私がこの作品を読んで一番面白いと感じたのは、その構造です。言ってしまえば『枕中記』の構造なんでしょうが。
廬生は物語の中で、夢を見るのです。その夢の中で廬生は、人生を経験します。それだけではなく、廬生、夢の中で死んでしまうのです!とてもメタ的ではありませんか?そこが面白い所だなぁと思ったのですが、何というか、言葉にしてしまうと面白さが半減してしまうような感が否めませんね。語彙力のない私には、特定の言葉に、感情を無理やり範疇化して詰め込むしか表現の手段がないのです。だからどうしても思った事と書いた事が途轍もなく乖離してしまうのですね。
自嘲はこのくらいにしておいて……それにしても面白い気がします。一段落目は、主な視点は廬生の夢の中にあります。それが、「急にはっと何かに驚かされて、思わず眼を大きく開いた。」という目覚めの表現と共に、視点が夢の中から大枠での物語世界内の廬生の元に戻ってきます。視点が、枠をひとつ越えるんですね。なんだかこっちまで夢から覚めたような感覚に陥ります。
なんだかこれ以上書いても、どうしてもうまく表せない気がするので、このくらいに留めます。でも面白かったんですもの!どうしてもお話する場を設けたかったのです。
最後までお付き合い下さり、ありがとうございました!
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