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「持たざる者」

『簡単にいわれていること』(https://note.com/shiru_life/n/n5115448e7951)にて提示した、価値判断の属性のはなしの続きをしたいと思う。
 人は、社会生活において他者を属性でしか判断できない。そして、SNSが発達した昨今において特に、個人の外在化された属性・付属している何らかの〝人間が決めた、それだけで価値のあるとされている属性〟でしか人を判断できないのである。 
 この問題について議論することを、何度も考えた。なぜなら、この議論は、「持たざる者の戯言」だと言われかねないからである。
 それについて、わたしはこう反論したい。
「もってなくて何が悪いの?なにも描かれていないキャンバスには、なんでも描くことができる。あなたにはそれがわかりますか?」と。
 ある属性を持ち合わせていない時、劣等感に苛まれるときも少なくないだろう。しかし、劣等感に苛まれている時間は本当に価値のあるものといえるだろうか?少しでも多く、自分が持っていない属性を持ち合わせている人間よりも上をいけるような何かをする努力を払うであるとか、なにか考える方向を変える思考回路になるための工夫をするようにするだとか、そういった、生産的なことに時間を使おうと思えばできるはずなのだ。この点において、既に差がついてしまっている。だからいつまでも、「持たざる者」として差別され続けるのである。
 そもそもの話、この社会において人を属性などという人が作った価値基準でもって判断しようなどという試み自体が歪んでいるのであって、それに対して「持たざる者」が忖度しにいく必要などは本来なら必要のないことである。そうすれば、「持たざる者」というレッテル自体が必要なくなるのだから。
 昔のドラマでも、主人公の女教師が「日本という国は、そういう特権階級の人たちが楽しく幸せに暮らせるように、あなたたち凡人が安い給料で働き、高い税金を払うことで成り立っているんです。そういう特権階級の人たちが、あなたたちに何を望んでいるか知ってる? 今のままずーっと愚かでいてくれればいいの。」(引用:https://soul-brighten.com/the-queens-classroom/)といったという投稿がSNSで話題になったことがあった。実際にそうなのだろう。それはそうだ。人間は、人間が有利なように・便利なように・得をするように、すべてをコントロールしようとしてきたのだから。すでにこのような構造というか、このような性質になってしまったものは変えることはできないのだから、癪に障るが「こちら側」が変わるしかない。我々なりの生き方を模索するしかないのだ。
 では、「持たざる者」でも苦しまずに生きる方法はないのだろうか?この問いについて議論していきたい。
 「持たざる者」には、その者たちにしか共感できない世界がある。これは、実際に「持たざる者」であるという自負のある方にはわかってもらえることであるが、「持たざる者」特有の辛さや、やるせなさなどの感情があるのだ。なにも、この話題に限ったことではない。例えば、車をもっていない人に車をもっている人の気持ちがわからないのと同じことである。逆も然りである。
 一番重要なのは、どの立場に置かれている人間であれ、そうでない立場の気持ちを慮るだけの余裕があるかどうか、なのである。結局はここにすべて集約される。
 共感ができなかったり、傾聴ができない人間は、人に必要とされることはない。断言してもいい。どんなに素晴らしい属性をお持ちであっても、それができない人間は本質的に欠落していると判断されてしまっても仕方ない。人を属性でしか判断できない人間は、本質的に人を見ることができていないという点で「持たざる者」ということもできよう。
 人間になぜ感情が備わっているのか考えてみてほしい。そしてなぜ言葉でコミュニケーションをとるという選択をしたのかも。分かち合いたかったからではないだろうか?感情のやり取りをしたかったからではないのか?本来、ヒトは属性などもって生まれてくることはない。すべて後付けでしかない。ヒトが人間となって社会という共同体を作ったからそれが必要になったにすぎない。そんなものに振り回され、本来備わっている能力を無視して、当たり前のものとしてそれをないがしろにしてなにができよう。
 もう一度考え直してほしい。「持たざる者」の立場にいると思っている方も、自分は持っている人間だと思っている方も。その属性を手に入れる以前の自分がいたこと。そして、自分はどれだけ大切な人に、そして、周囲の人に寄り添えているだろうか、と。