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簡単にいわれていること

「自分を大切にしましょう」

この言葉を見ない日があるだろうか。それだけ膾炙《かいしゃ》されている言葉であるのに、内実を理解し実行できている人はどれだけいるだろうか。

今回は、皆がわかっているができていない「自分を大切にすること」とはどういったことなのかを検討していこうと思う。



自分の構成要素

まずは、大切にするべき対象としての「自分」を構成しているものについて考えることにしたい。

精神力・体力・時間 この3つに絞られると考えられる。

さらに、自分を取り巻く「環境」として、人間関係・職場・家庭が考えられる。

これらの情報を念頭に置いた状態で、次のステップに進む。

構成要素が欠けること

前節で挙げた自分の構成要素のうち、どれか、もしくはそのすべてを奪ってくる他者は切り捨てるべきだとわたしは考える。

それはなぜか。

「自分を大切にする」という大きなテーマの中で、最も優先されるべきは己、つまりは自分であり、その自分の構成要素を侵略・剝奪されるような関係・存在は脅威でしかないのだ。

3つの構成要素は死守すべきことであり、侵されるべきでない、尊いものであるから。

人は変えられない

前節では、自分を侵略してくる他者は切り捨てるべきだと主張した。
それはまさに自分を取り巻く人間関係を含んだ環境で起こることである。
そういった環境の構築は、自らがコントロールできる範囲とそうでないものがあるが、コントロールできる範囲にあるものの中で、対人関係において我々は問題を抱えがちである。

しかし、その抱える問題の多くは「人は変えられる」という幻想の中で起こっていることは意外にも気付かれていない事実として存在していると考えられる。

そう。「人は変えられる」というのは幻想なのだ。人は変えられない。しかし、人は他者を自分の力でどうにかしようと侵略してくるのだ。

そうして、我々の構成要素を削ろう・奪おう・消耗させようとしてくる。
そういった存在は、自らを取り巻く環境から排除すること。
それが、「自分を大切にする」というテーマにおいては重要な措置である。


自分を守るために自分が変わる

人は変えられないということを理解したうえで、ではどうしたら自分にとってベストな人生を過ごせるようになるのか。

まず念頭に置くべきことは、自分の構成要素を守ることである。そして、人は変えられないということを考えた時、残されるのは「自分が変わる」という選択肢である。

人を変える労力より、自分が変わる労力の方がよほどコストパフォーマンスがいい。(そこでかかってくる労力も自分の構成要素であり、消耗するのであるのだが。)


犠牲・寄生

そして、これは多くのひとがやってしまいがちな過ちであるが、人のために自分を犠牲にすることは、よほどの利益があることを除いては避けたほうがいいということだ。

自分を犠牲にした場合、相手に都合のいいように使われるリスクも出てくる。そういった存在に〝寄生される〟イメージが適切に思う。
寄生されて消耗することを避けるためにも、そうした関係性(依存関係等)は切り捨てるのが吉である。


価値判断 

自分の価値というのは、相対的にみて何で決まるのだろうか。
素朴な人間の本質という視点においては、生きているだけで尊いということになるが、社会ではそうもいかない。社会において人の価値判断というのは属性(学歴や資格等)によって評価される。

社会生活から切り離された、個人との関わり合いの中で、もし「自分は存在価値がない」などと考えてしまうことがあったとしたら、それは自分の選択・構築してきた環境に問題があると考えていい。


おわりに


自分の尊厳を守るために必要なのは、人間関係を含む環境の構築をうまく取捨選択することで実現する。

我慢をして、人に忖度・依存して関係をずるずる保つことで消耗している人生は、自分が本当にやりたいこと・やるべきことを後回しにしていることに他ならない。

自分の人生を謳歌するために、取捨選択を積極的にやっていくことが、主体性をもって生きるということなのではないだろうか。