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『保育者の地平』~子ども理解の深層~

どうも、しろやぎ保育書房です!

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 今日は津守真さんの「保育者の地平」を参考に、「子ども理解」について話をしていきたいと思います。
「子ども理解」は保育の基本、ということは、皆さん既にご存知の通りです。
 保育のやりかたも、子どもへの毎日のかかわり方も、「子ども理解」が全てのスタートになっているからです。
 もちろん、もう「子ども理解」は十分にできているよ、という方もいらっしゃるかもしれません。
 しかし、時に、
「この子が、どうしてこんなことをするのかわからない」
「この子との関わり方が、うまくいっていない気がする」
「この子のことをもっと理解したいなぁ。どうすればいいかなぁ」
 と考えることもあるのではないでしょうか。
 今回の筆者「津守真」さんは、大学で保育学を長年研究した後に、養護学校の保育の現場に立たれました。
 彼はそこで、言葉や態度を理解するのが、一見「難しい」と思われる、障碍を持った子どもたちのことを、深く深く理解してきたのです。
 そんな彼が言う「子ども理解」について、
 今日は、4つのステップに沿って紹介していきたいと思います。
 その、4つのステップとは、
①姿勢を整える
②同じ動きをする
③あるがままに付き合う
④洞察を得る
「子ども理解」のステップを知ることで、また、津守さんの数々の言葉にふれることで、我々保育者も多くのヒントを得る事できるのではないでしょうか。
 明日から、もう一歩進んだ子ども理解をしていきたい!と思うすべての保育者にお届けしたいと思います。

 今日の参考文献はコチラ
『保育者の地平~私的体験から普遍に向けて~』津守真 著 になります

 それでは今日もよろしくお願いしまーす!


①津守真さん/『保育者の地平』の概要

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 まずは、著者の津守真さんについて紹介したいと思います
 津守真さん。1926年東京生まれ。お茶の水大学の名誉教授、日本保育学会の第5代会長も務めた方です。
 津守さんは東大の文学部心理学科を卒業、お茶の水大学で教授をしたのちに、57歳~69歳まで12年間愛育養護学校の校長をされ、保育の現場に立たれました。
 すごいですよね。57歳から保育現場に戻るなんて、なかなかできることじゃありません。
 57歳というと、令和3年2月現在では、ダウンタウンのお二人が同じ年齢57歳です。
 なかなか「さて、現場に入って頑張ろう!」となる年齢ではありません。
 保育によっぽど強い「思い」をもっていたのかもしれませんね。
 そんな12年にわたる保育の中で取り組み、考えたこと、学びをまとめたのが、今回の参考文献『保育の地平』というわけです。
 この『保育の地平』は、全8章で書かれています。
 保育現場に立った12年間を2年ごとに区切って6章まで。
 それにプラス「保育の地平」と「要約」の2章が加わります。
 子ども達のことを深く理解し、保育者はどうあるべきかを書かれた本書には、保育者に気づきを与える言葉がたくさん書かれています。
 例えば、
 「今日、子どもが必要とすることに私共は答えたい。その逆ではない」
 「信じられないようなときに、疑わずに信じるのが、信じること。
  望むようなことができないときに、希望を持つこと
  愛することができないようなときに、愛すること
  保育の現場も矛盾に満ちている。私はその中にあって、生きつつ学ぶ」
 と、いかがでしょうか。
 このような言葉が本書にはたくさん書かれてあり、言葉ひとつひとつが、保育者としての姿勢を正してくれるような気がします。

②1つ目のステップ「姿勢を整える」

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 それでは、本題の「子ども理解」についてみていきましょう。
 まずはファーストステップ「姿勢を整える」です。
 まず最初に、子ども達と向き合う「姿勢」について語られています。
 どんな姿勢で保育をしているか。子ども達と向き合っているか
 基本といえば基本ですが、やっぱりとっても大事なことです。
 同じような保育をしようとしても、保育者がどんな姿勢で子どもたちと向き合っているかで、子どもたちが受けとる印象も、そこから学ぶことも変わってきます。
 「とりあえず、こんなもんでしょ」って流す感じでいる保育者と
 「子ども達と心を通わせたい」「子どもたちとともに日々成長したい」と思っている保育者では、
 当然「子ども理解」の深め方は変わってきます。
 だから、まずは姿勢を整えましょう。ということなんですね。

 じゃあ、一体保育者は、どんな「姿勢」で子ども達に向き合うべきでしょうか?
 津森さんはこう言います。
「まずは、保育者も子どもたちも対等な人間同士であることを認識せよ」と。
 まずは、まぁ、基本に立ち返りなさい、ということですね。
 そして子どもたちのことを尊厳ある存在だ、というふうに言います。
「子どもと出会うとき、相手の子どもは、大人である私にとって、
究めつくすことができない未知の世界をもった、他者としての存在である。
子どもは究極的には、大人の理解を超えた他人が手を触れることを許されない、尊厳な人間存在である」

 津守さんは、保育者と子ども。教師と生徒。
 そこに能力の差や立場の差はあるけれど、自分の人生を生きる人間同士として見たら、人はみな対等だ、と言ったんですね。
 幼くても、障碍があっても、人はいかなる他人や組織の所有物ではなく、
自分自身の人生を生きるべき尊ばれる存在なんだ。ということです。
 保育者として長く子どもたちと過ごしていると、どうしても「先生」という振る舞いが多くなります。
 そんな中、気が付くと、子ども達を上手く誘導することだけを考えてしまってることがあります。
 教える事、伝える事に集中しすぎて、聞くこと、話し合うことの時間をないがしろにしてしまうこともあると思います。
 もちろん「子どもの目線で考えている」
 「子どもたちに寄り添って考えている」
 そういった意識で保育されている先生も多いと思いますが、基本の基本として「対等な存在」として向き合っているか、ということを、改めて振り返ってみることが大事ということです。

③2つ目のステップ「同じことをする」

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 さて、対等な存在として向き合った。
 そして、さあ子どものことをもっと理解しよう!と思ったとき、皆さんならどうされるでしょうか。
 私がパッと思いつく方法としては「観察」があります。
どんな風にあそんでいるかな?とか、みんなとどんなやり取りをしてるかな?とか
 何が得意で、何が苦手かな?こんな意識で子どものことを注意して見ていきます。
 さらに、他の先生と話してみて「どうかな?」「こうかな?」と推測していきます。
 もちろん、「観察」と「相談」から得られるものは多いです。
 しかし津守さんは、「子どもと同じ動きをしてみること」を勧めています。
 子どもが歩けば保育者も歩く。子どもが手を上げれば、保育者も手を上げる。
 子どもと一緒に歩き、当たり前の行為に継続して関わる。
 保育者が子どもの世界を共に歩むということが良い、と言っているんです。
 そうすることで、「一連の行為の中の、その子独自の考え方を見ることができる」と言っています。

 実際の例を見てみましょう。
 3歳のA子ちゃん。
 津守さんの学校に来たA子ちゃんは、保育室を飛び出します。
 1階からゆっくりと階段を上がって、2階へ上ります。
 そして、2階のベランダを通って、外階段を下りて庭に出ていく。
 途中、薄暗い廊下や広い通路も通る。 
 いくつもの部屋に立ち入って、学校の中の空間をめぐって歩きました。
 もとの保育室に戻ったなと思ったら、また階段へ、と何度も何度も繰り返します。
 こんなA子ちゃんに「お部屋に戻ろうか」とか「なんでそんなに歩いているの?」とか、津守さんは全く言わないんですね。
 ただ、ついていく。ただ、同じように歩くわけです。
 それは津守さんにとっては同じことの繰り返しなんだけど、いつしかそれがA子ちゃんにとってはうれしいことなんだ、と表情から、雰囲気から、わかってきたそうです。
 そしてそれがわかると、一緒に歩いていること自体が楽しくなってくる。
 子どもと同じことをしたからこそ「気づけたこと」「感じれたこと」というのがここにあるわけです。
 現代、高層マンションに住んでいる家族がたくさんいます。
 しかし歩き始めた子どもたちが、高層マンションの部屋だけの生活を強いられると、自分が思うところに歩いていく、という基本的な欲求すら満たされないということが起こります。
 そんな子たちは、学校にきて、まず歩き回るということをするそうです。
 これは満たされていない欲求を満たそうとする、自然な行為です。
 A子ちゃんも、都市の真ん中に住んで、自分で思うところに自由に歩いていけない、という状況の中育ってきた。
 そんなA子ちゃんだから、自分の足で歩くこと。いろいろな空間や通路を次から次へと開拓していくことに、生きる喜びを感じているのだろう。と津守さんは推察します。
 「歩くことは、新たな空間を眼前に展開させる。
 自分が歩くことによって次の空間が広がることは、未来が開ける感覚を作り出す。
 自由に歩き回ることが許されない都会の環境の中で、A子は未来も閉ざされたように感じていたに違いない」 
 そういって、A子ちゃんの歩くことの意味、A子ちゃんが歩くことを喜んでいることへの理解を深めていったのです。
 このような経験から、津守さんは
「子どもの思いを追って、一緒に歩いてみることで、子どもの表現を知り、理解ができる」といっています。
 つまり、子どもと同じことをすることを通して、子どもの理解を深めることができる、ということです。

④3つ目のステップ「あるがままに付き合う」

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 では、次のステップに移りたいと思います。
 これは、同じ動きをして子どもを理解するときにも、意識しておきたいポイントです。
 それが「子どものあるがままに付き合う」ということです。
 何だ、そんなことか。と思われるかもしれませんが、以外にこれ、難しいです。
 相手のしていることの意味を、どうしても自分の頭だけで答えを探してしまう。
 自分の価値観の中で相手を判断してしまう。
 そして、その子の本質と違ったとしても、こちらの思う方向へと導いてしまいがちです。
 自分の期待に沿った行動をとらせようとする。というわけです。
「子どものあるがままに付き合う」というのは、言葉で聞くと簡単ですが、
実際に行動に移すのは、かなり強い意志が必要だと思うんですね。
「この子を理解するために、この子のあるがままと付き合うんだ」と、強く思ってないとできないです。
 津守さんは言います。
「相手が変化しなければ一緒にやっていけない、というなら相手の理解はできない。自分の考え方を変えて、自分とは違う相手をそのままで付き合うことを必要とする」と。
そして、本当の理解とは、相手を変えるのではなく「自分自身が変わること」にある、というんですね。
 変わるのは、相手ではない。自分だ、と。
津守さんは言います。
「理解の本質は、自分の向きを変える意思である。知識の網の目の中に位置づけることではない。自分が変化することによって、自分を他者に対して相対化すること。自分を絶対化するとき知性は失われる」
 なかなか、厳しいお言葉です。
 自分が絶対、という考えで子どもを理解しようとしたら、そこに知性はない、と言い切っています。
 自分を相対化、つまり自分が絶対じゃない、という意識を持つ。
 その意識で子どもと向き合うことで、その子のあるがままに付き合っていくことができる。
 ということなんですね。
 A子ちゃんの場合、津守さんは学校内を歩き回ることに「落ち着きがないな」とか「ずっと歩き回って意味ないことをしている」なんて思いませんでした。
 繰り返し歩き続けるだけとはいえ、時間を持て余したり、他の子の事やクラスのことが気になったりもしたはずです。
 それでも、A子ちゃんの行為を見る自分を相対化して、「良い」「悪い」も、学校のルールも全部置いて、ただついて歩いた。
 その結果、A子ちゃんの気持ちに触れることができた、ということではないでしょうか。

 保育というのは、子どもの刻刻と変化していく行為の中に、願いや悩みを読み取り、それに身体で応答する高度な精神作業です。
 そんな高度な精神作業を支える基盤に「子ども理解」がある。
そして、
 自分を変えること。自分を相対化すること。あるがままに付き合っていくこと。
こんな意識を持つことから「子ども理解」はより深まっていく
のです。

⑤4つ目のステップ「洞察する」

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 最後のステップは「洞察する」です。
 「洞察」とは、良く観察し、物事の奥底にあるもの、つまり本質を見抜くことです。
 例えば、子どもの行為を見て「どんな気持ちでやっているか」を感じ取ることは比較的簡単です。
 しかし、その行為が、子どもの心の深いところにある疑問や願望と結びついていると気づくことは誰にでもできることではありません。
 正直に言うと、この「洞察」のステップは非常に難しいです。
この「洞察」の理解を得ることができる保育者は、本当に稀ではないでしょうか。
 筆者の津守さんでさえ、「ある条件に恵まれた時」にしか、この「洞察」には至らない、と言っています。
 では「洞察」とはいかなるものなのか、具体的な例を見ていきましょう

 朝、B男が元気よく登園してきた。
 1~2秒、津守さんにギュッと抱き着いて、その後実習生と遊び始めた。
ふとしたことから津守さんが布を顔にかぶって、オバケのフリをして追いかけてみた。
 その時、B男の身体がビクッと震える。体中に見えない衝撃が走ったようだ。
 その様子に驚いた津守さんは「私だよ」といって布を取り除いた。
 こわばった身体、ひきつった顔から、B男が、本気でそのオバケを怖がっているのがわかった。
 「ちょっと驚かせすぎたかな」と、思っていた津守さんに、「お化けやって」とB男は何度も頼んできた。
 津守さんは、その度にお化けになって、キャッキャと笑って逃げるB男を追いかけた。
 そして、すぐに顔の布を取る。
 こんな遊びをB男とすることによって、津守さんは気づきます。
 「もしかしたら、この子にとって、周りの人々はオバケのような不可解な存在になっているのではないか」と。
 そして「これは、他人のアイデンティティへの疑問の表れではないか」と。
 さらに、「他人のアイデンティティの疑問が、自分のアイデンティティにも疑問を持つことにつながっているのでは?」と思うわけです。
 さて、この「アイデンティティ」とは、一体何でしょうか。
 これは、状況や環境によらず、いつでも「自分は自分だ」と思うことです。
 このアイデンティティが育つと、生きがいを見つけたり、自分の価値観が確立されたりしていきます。
 しかし、その子の本質とはあまりにも違う役割を演じさせる。
 場所や状況に合わせた振る舞いを強要させる。
 こういうことが続くと、
「本当の自分って何なんだろう?」「自分って何がしたいんだろう」と、アイデンティティの揺らぎが発生することがあります
 その揺らぎが強まることによって、対人関係に影響が出たり、失調症、神経症の原因になったりしていくこともあるんです。
 B男は普通の幼稚園に行っているけれど、発達に遅れが見られ、言語も不明瞭な児童です。
 他の子どもたちの中に入っていけず、指をくわえて傍観していることが多いといいます。
 周りの大人たちは、親切で優しい反面、彼に何とか人並みに追いついてもらいたい、と強い希望を持っていました。
 しかし、B男にとっては、周りの大人は自分の能力を超えたことを要求してくる不可思議な存在に映ります。
 こんな大人を理解不能な存在ととらえ、結果、他者のアイデンティティに疑問を持つことにつながったのだ、と津守さんは言います。
 そして、B男とのオバケごっこは2週間続きました。
 最初はビクッと驚いていたB男でしたが、次第に切迫感がなくなってきたようです。
 そしてある日、実習生のひざの上で楽しそうに遊んでいたB男が津守さんを見ると、身を乗り出します。
 そして津守さんの顔をしげしげと見つめ、
「これ、だあれ?」と言いました。
別にふざけて言っている感じではない。
 しかし、何度も遊んでいる津守さんのことを知らないわけがない。
 そして、津守さんは気づくわけです。
「B男はオバケではない私を、改めて知りなおす必要があったのだ」と。
つまり、彼は他者のアイデンティティを練り直す作業に入ったのだ。というわけです。

 はい、以上が津守さんの「オバケごっこ」を通しての洞察となります。
いかがだったでしょう。非常に深い洞察の一例が見れたのではないでしょうか。
 津守さんは、これに引き続き「アイデンティティ」の提唱者、エリック・エリクソンの著書「洞察と責任」の考察を絡めて、さらにB男の事例を探っていきます。
 私たちがすぐには到達できない境地と言いますか、なかなか常人離れした洞察を展開しています。

 では、私たちがこの「洞察」に至るには、どうすればいいか。ということなんですが、
 これは、なかなか簡単なことではありません。
 毎日の修練がベースにあって、さらに条件が揃ったら得られる、つまり運も必要なものです。
 日々の保育の積み重ねが功を奏することもありますし、
 他の子ども達とのやり取りで学んだことが活かせることもあります。
 勉強して学んできたことがたまたま結びつくことがありますし、
 今までの保育経験が助けてくれることもあります。
 今後の積み重ねが、いずれ洞察に結び付くかも、としか言えないんですね。

⑥まとめ

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それではまとめに行きたいと思います。
 今日は津守真さんの著書『保育者の地平』を参考に「子ども理解」を深める4つのステップを見ていきました。
 まずは「姿勢を整える」
 改めて、子ども達を対等な人間として見る事。
 そして「同じことをしてみる」
 子どもが歩いたら保育者も歩き、子どもが手を上げたら保育者も手を上げる。
 同じことをすることで、伝わってくるもの、感じ取れるものがある。
 また「あるがままに付き合う」
 自分を変えること。自分を相対化すること。あるがままに付き合っていくこと。
 簡単なようで、意外と難しいことです。しかし、自分を捨てることから、子ども理解は深まっていくんですね。
 そして「洞察」
 これは、難しかった。これは、難しいですよね。
 保育を、知識を、経験を、時間を積み重ねていくことで、運よく「洞察」に至ることがある。
 学び続けた結果、得ることができる可能性があるものでした。
 正直言うと、今回この「洞察する」を4ステップとして紹介するのが良いのか、と迷いました。
 今回のこの「洞察する」は、紹介しても、明日から即使えるものにはならない。
 むしろ、「こんなのできないでしょ」と思われて終わるのではないか、とも思いました。
 でも、そうは言っても、と考えなおしたんです。
 保育って、簡単にできる事ばかりじゃないよね?と
 保育ってすぐにできるものと、すぐには到達できないものがあるはずです。
 積木の遊び方やドキュメンテーションの作り方は、やり方や知識があれば、ある程度再現可能なものです
 でも、今回の「洞察」のように、頭では理解できても、実際、実行するのは難しい事だってあるはずです。
 なので、今回は、簡単にできるものではないと理解しながら「洞察する」を紹介しました。
 保育って深いです。
 保育って深いなぁ、と皆さんにも改めて感じてもらえたならうれしいです。
 私自身、今回は紹介しきれませんでしたが、津守さんの本を読んで、保育の深さに改めて感動をしました。
 ちょっと、学生の時の気分を思い出したんですよね。
 私は現場に立ってから今まで、どちらかというと「現場で役に立つもの」「役に立たないもの」と言った知識の線引きが少なからずあったように思います。
 でも学生の頃は、まだ保育現場に立つ前ですが、保育の奥深さ、保育の繊細さに感動していた自分がいたんです。こんな自分を思い出せたのも、ちょっと嬉しかったです。

 本書のタイトルになっている「保育者の地平」という言葉を最後に紹介したいと思います。
 津守さんは保育者の地平という4行の文章を、本書の最後に書いています。
 それはこんな文章です。
「保育の実践の場で、人生の子ども時代にある者と、壮年期にあるものとが出会う。そこには、個人の生涯だけでなく、社会の歴史、教育と福祉の歴史の全体、過去と未来が含まれている。異質な文化背景の子ども、障碍を持つ子ども、全ての子どもが含まれている。
人間を育てることにかわりはない。
保育者の意識の地平は垂直にも水平にもはるか遠くまでに及んでいる
保育は職業としてあるだけでなく、人間の存在をかけた行為である
 今回、ここまで読んでいただけた方なら、この言葉の深さを感じていただけるのでは、と思います。
 私たちが、一人の子どもと、ある一点で出会う。
 しかしその点は、水平にも垂直にも伸びている。
 人の歴史が、保育の歴史が、さまざまな子どもの背景が、過去が、未来が、私たち保育者と子ども達との出会いに凝縮されている。保育者の地平にはきりがない。いくらでも伸びていく。
 保育って深い。
 深いなあ。と思います。
 私たちにできる事、そしてまだ私たちにはできない事もあると思います。
 しかし、学び続けていくことで、より良い保育の未来につながっていくと感じます。
 よろしければ皆さん、今後も私と一緒に学んでいっていただければ嬉しいです。
 今日は以上になります。
 どうも、ありがとうございました!

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