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「大きいばあちゃん」

幸せなことに私は、自分が大学生の歳になるまで、曾祖母と同じ時代を生きることができました。

90代まで生命の芽を伸ばした、曾祖母。私や弟は、彼女を「大きいばあちゃん」と呼びました。

弟は私と8つも違うので、もしかしたら彼は、来客を迎える顔で私達を出迎え、お話をする姿しか、見たことがないかもしれません。

でもね、十数年前は旅行にも行っていたんだよ。

私が覚えているのは、私の誕生日の日をねらって行った、広島の地。

事細かにどこへ行ったかまでは言えないけれど、当時小学校3、4年生だった私のリクエストで原爆ドームと、博物館へ行ったことは覚えています。

「大きいばあちゃん」を想って一番最初に思い出すのは、その広島旅行の日の夜、温泉へ行くために、ホテルの廊下を「ばあちゃん」と「大きいばあちゃん」と私で歩いたあの時の私の視界です。私と「大きいばあちゃん」は手を繋いで、廊下を歩いた、あの景色、あの瞬間だけはなぜか未だに、写真があるみたいに私の胸に刻まれています。

幸せだったのかなあ。手が温かかったのは覚えています。感覚も…。

毎年お年玉をくれていたのも覚えています。

会いに行けば、「よく来たねぇ」と笑顔。私が帰る時は必ず、手のひらに小銭を握らせてくれてたなあ…笑

憶えています。


いつの日かあなたは会いに行くと、「ごめんねえ、だれか分からないの」というようになりました。でも、人は変わっていなかった。いつもの優しい、「大きいばあちゃん」でした。

会いに行って、そう言った時の顔もなんだか覚えていて、本当に申し訳なさそうで、忘れられたことより、私達が現れてその顔にさせてしまうことの方が寂しくて。

曾祖母もひ孫も、お互いに歳を重ねたのもあって、いつの日か会うのは年に1回になりました。

私達は、いい存在になれていましたか。

”人を忘れているらしい”というのは、苦しいことでしたか。

幼い頃はよく会っていた筈でしたが、私とあなた、私の弟ともそうでしょうね、私達姉弟と「大きいばあちゃん」だけに世界線を絞れば、お別れは突然でした。何の前触れも、危ないよなんて話も、何もなく 突然でした。

朝起きたら、「亡くなったんだって」と母から話を受けたこと

その後あなたの「器」とお会いした時に、私は”生命の死”に触れました。

運ばれていくとき、お顔を見られる最後のとき、なんだか理由は思いつかないけれど、今 目にしているこのお顔を、忘れないくらい脳にやきつけておこう と、この人間不信の私が珍しく、人の顔をじーっと 長い間 見続けたことを覚えています。


そちらは、どうですか

こちらは、流行病の話が大きくなって、「不安定」の文字で世界がごった返しています。

見ていますか。 …もしかしてもう、私達が分からない所で、新しい乗り物に乗って 始めてみたりしているのでしょうか。そしたら、この想い、届くかなあ?笑

そちらからみて、”ふるさと”はどうですか 愛はありますか?

福田家恒例、年に一回の年の切り目を祝う集まり。どうしても平等に年を取ってしまうから、去年また一人、世界を卒業された方がいます。長い時間を費やして、パートナーと”愛の時間”を絶えず守り続け、最後まで全うしていった方です。

会えましたか? 私は人の集まりがとっても苦手で、人の多い空間からは逃げる手段をとるので、お二人が話されている画というのは記憶から消えているけれども、あれからまた会えたでしょうか。


私はこれからもかわらず、結束の強い「人の集まり」の空間を嫌うでしょうが、「大きいばあちゃん」がいたことは忘れません。温かい人でした。

実は、私の人生において「大きいばあちゃん」について書くのは2度目です。最初は小学校6年生の夏休みの自由研究で、お手紙を書いていました。お手紙コンクール、みたいな感じで、結構いい所まで残った記憶が…笑

11年越しくらいに、また書きました。届いたかは分からないけれど、私は久々に思い出した景色や、体温の記憶なんかがあって、なんだか心を洗ってもらったような感覚でこの文章を打っています。

思い返して想う(思う)

大きいばあちゃん、私達姉弟に愛をありがとう。また、会える日まで。

#おじいちゃんおばあちゃんへ

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