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聞く力より「聞かせる技術」

子どもにモノゴトを教えるとき、また教えたい時、大人はどうするか。

「〇〇してちょうだい」と、ストレートに指示命令を出すと、子どもは圧を感じて動きます。
ただこの場合、圧を感じなくなったら、もしくは圧に慣れたら動かなくなります。

「ねぇねえちょっと聞いて…」と普通に声かけすると、子どもたちはとりあえず耳を傾けます。ただやはり聞いてくれるのは最初だけ、何度も続けば聞く事もしてくれません。

では、先にこちらから質問して、関心を引かせてから促すとしましょう。
子どもに対しても、いわゆる聞く力というものを使ってみます。ただ、この手もこちらからアクションを起こすわけですから子どもが慣れてしまえば煙たがられるようになります。

結局子どもは与えられた物には興味が湧きません。

では向こうからの関心を引かせる、声をかけさせる工夫をすればいいわけですね…

実はこの手は子供たちの常套手段でもあります、僕たち大人はこの手を使うどころか、この手に振り回され続けています。

子供の方がまず先に、大人を困らせることばかりします。当然大人はあたふたして大きい声を出したり、眉間にシワを寄せてヘンテコな顔になってみたり、とにかく自分をかまってくれます。イタズラは子どもたちにとって正論、つまりは子どもたちの方が一枚上手というわけですね。

では先に子供たちの関心を引っ張るにはどうしたらいいか?

ポイントはふたつ。ひとつは子どもにとって不思議なこと。もうひとつは大人が隠そうとしていること。その2つに興味があります。

その2つにおいて、大人が工夫をしてみればいいわけです。これは"従来の"成人男性に対しても効き目がありますが、「不思議なこと」は極端に減ってしまいますからね。大人に対してはサブリミナルが有効です。

ということで、今のところの結論は、子どもに何かを教えたい場合は、目の前で、または目に見える場所で、何かをやって見せるしかない。

つまり親であってもそうでなくても、子どもは子どもが認める身近な大人を模倣するしかない、という基本的習性を持っています。

その子どもが認める大人というのは、子どもたちの味方であること、つまり自分たちを認めてくれる大人であるということ。

そして、子どもたちを認めるというのは、やはり今の自分を認める、というところに起因するのです。

そうすれば子供たちの魂が澄んでいることに気がつきます、大人より尊いものだと気がつくのです。

とにかく子供たちの興味関心の根っことなる勇気を摘んでしまってはいけません。子供たちが関心を持っている事が善なのか悪なのか、それは誰にもわかりません。その判断をするためのヒントを身近な大人が見せておかなければならないと思っています。


親の願い

親の願い、それは子どもが親である「私」を超えること。具体的に言うと子どもが親を超えたと思えること。

親としての願いはそこにあるように僕は感じています。

それともうひとつ、子どもたちには、これから大人になっていく人たちには、地域や人間社会に包摂的に守られて生きているという事、その中で幸せを感じ取る心のアンテナをきちんと設置してあげること。

あるひとつの価値観だけでも、あるひとつの宗教だけでも、あるひとつの考え方だけでもなく、自分が守られている社会のような様々なモノゴトを包み込める心の風呂敷を、僕たち大人が渡してあげることができたら、自分たちにもハナマルをプレゼントしたいと思っています。


最後に記事の紹介です.
まだ小さなお子さんを持つお母さんが、親の在り方について真剣に、真摯に向き合おうとしている姿勢は、しがない父親たちにとって、とても勇気づけられるというものでもあります。ぜひご覧下さい。↓↓

#エッセイ #コラム #子育て #親 #聞く力 #聞かせる技術

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