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ささやかな愛を、自分に


疲れているときは、思いのほか、盲目だ。


ちゃんと休んでねとか、無理しないでねって何度も言われたけど、休んでるし、無理もしてないと思ってた。
いや、盲目になろうとしていたのかもしれない。自分がボロボロであると認めたら、もうなにもできなくなりそうだったから。
当然、自分のいまの状態を感じるよりも、目の前の壁を超える方法に、目線も思考も奪われていた。

結構だめなところまで落ちたと思う。
でも落ち切ってしまったら、あとは上がるしかない。少しずつ気持ちも生活も上向きになってきて、明るい気持ちを取り戻した。元気になった。そこでようやく気がついたのだ、自分が疲れていたことに。

一度疲れていることに気づいたら、疲れるほどがんばった自分のことも見えてきた。
疲れているときは、まともな生活が送れないのも、仕事が全然進まないのも、本が読めないのも、甘い物ばかり求めてしまうのも、会社に行きたくないのも、ぜんぶぜんぶ、自分のせいだと思っていた。
けれどちがった。シンプルに疲れていただけだった。そして、疲れているのだから、できないことがあって当然だと思った。

それに、疲れていることを認めたら、ここまで生きてきただけでえらいなって、自分を抱きしめたくなった。いや心の中では精一杯抱きしめていた。手放しで自分のことを褒められたし、がんばったとも思えた。そのがんばりがうまく成果に結びついていなかったとしても、私はがんばったって胸を張って言える気がした。
これまでがんばっているなんて、思ったことなかったのに。自分を本当に褒めたことも、認めたこともあったかわからなくて、どちらかといえばずっと責めてきたのに。これが自己肯定感みたいなものなのかもしれない。

ずっと自分を認めたいと思ってきたけれど、認めるっていっても、どうやって?と思っていた。今は、少しその糸口をつかんだ気がする。自分を認めることは、自分の今の状態を把握することから始まるんじゃないだろうかと思うのだ。自分がいまいる場所をたしかめるような。地面を踏みしめてみるような。そんな感じ。

***

がんばるための条件は人ぞれぞれだ。わたしは正直、がんばっているときに、自分は疲れているって認識してしまうと、それ以上がんばれなくなってしまうタイプ。やらなきゃいけないことを全然やらなくなってしまうから、それがいいとも一概には言えない。

しかも、人生には、無理をしなきゃいけないときや無理をしたい場面がたくさんある。何か得たいもの、やりたいことがあるなら、相応の時間や労力は必要になる。目の前に仕事がうず高く積まれていても、大切な人が困っていたら、助けにいきたくなっちゃうようなことだって、絶対にある。

無理はしてもいい。
疲れてもいいし、疲れたらご自愛なんてしなくてもいい。ていうかできない。疲れているときにこそ必要なのだけど、ご自愛にはある程度体力と気力が必要なんだ。それでご自愛できない自分をさらに責めるのは、本末転倒だ。

自分を褒められなくてもいいし、認められなくてもいい、受け入れなくてもいい。自己肯定感なんて低いまま生きていってもいい。

でも、一度足元を見てみてほしい。自分が今いる場所を、しっかり認識しておくために。

自分ではまだ山の3合目くらいだと思っていても、実はもう8合目くらいのひどく空気の薄い場所を登っているかもしれない。それはしんどくて当然なのだ。もう少し頑張らないと頂上にはたどりつけないけれど、しんどい状況に置かれていることを、もう少し理解しようとしてもいいはず。

疲れていると認めることは難しくても、自分の置かれている場所がしんどい所だと知ることはできそうな気がする。できるだけ客観的に、自分の現在地点を把握しておきたい。

もうすこし善く生きるために。


追伸
最後にひとつだけ言いたい。
1日くらい休んでも、ぜんぜん復活できるから、大丈夫。厳しいと思ったら休んでいい。休みたいと思った時点で、きっと疲れているのだ。そして疲れているということは、十分頑張ってきたということだ。
疲れちゃうくらいがんばれるのだから、またいつでも戻ってこられる。だから今だけは、ゆっくり休もう。それから、元気にがんばろう。

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