「As a person」

所属しているボランティア活動の持ち回り記事用に作りましたが、内容が重いのでこっちに書きます。

2000年代の東京のゲイパレード(LGBTという言葉すら知られていなかった頃です)で、「人はみな同じだから平等ではなく、誰ひとり同じではないから平等なのです」というプラカードを誰かが掲げていました。最近の「ダイバーシティ(多様性)」にも通じますが、そもそもセクシュアリティだけでなく、能力も身長もその他のアイデンティティも、全く同じな人は誰もいません。そして誰もが自分の人格や人生を持っています。ごくごく当たり前のことなのですが、そんな当たり前のことが忘れ去られてしまった光景を嫌というほど遭遇しました。

 「相手の立場で考えなさい」「人の嫌がることをしてはいけません」 ― そんな小学生レベルの常識すら通じない「大人」「経営者」「政治家」が世の中に多いなぁと、残念ながら思うことも多いです。いじめやハラスメントは言うまでもなく、人としての違いや個性を潰して「規格化」するだけだった昭和や平成の学校教育、そしてそんな人達が作っていた過去の「ブラック企業」も。

一人一人が「人」ではなく単なる「管理対象」だったり、「コスト」だったり「駒」だったり。そんな環境でそんな扱いばかり受け続けて、しまいには自分まで人としての「感性」「魂」が死んでしまい、ゾンビのようだった時期もありました。 

「周りがそうしているのに、1人だけしないのはおかしい」 ― もう何千回言われたかわかりません。

ましてやただでさえ「察する」力の弱いASD当事者、保育園ですら虐待を受けていました。きっと周りと違っていたのでしょう、でも「どんなふうに周りと合っていないか」は誰も教えてくれませんでした。ただ突然廊下に引きずり出されて、顔を平手打ちされて、怒鳴られて、そこに1人放置される、その連続でした。まだ4歳5歳の頃です。
学校でも会社でも同じでした。毎回目をつけられ、いじめやパワハラの対象になり、ある時は突然不当解雇されて。

でも人なんて違って当然です。
周りを苦しめているわけでもないなら、「周りがどうか」じゃなくて「楽しく幸せかどうか」でいいと思っています。もっと言えば、「周り」の人たちはちっとも楽しそうでも幸せそうでもありませんでした。まぁ、元々違って当然な人たちを「全員同じ」にしてしまうのなら、「中の人」は苦しいに決まっています。

それでみ~んな苦しい顔して、結果も出なくてどんどん沈んでいる、それが今の日本だと見ています。苦しいだけなのに、まだ「前例」や「場の空気」に合わせたままの謎な人たち。

円安やインフレで完全なスタグフレーション状態ですが、仮に円が暴落して紙くずになっても、無価値な給料のために沢山の人達が通勤電車で出社しそうな気がしています。なんだか滑稽だし、怖くもありますが。


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