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べぼや橋を渡って|岸本佐知子さんのこと【前編】

朝日新聞に”常識吹き飛ばす「ごっつい」やつ”というタイトルで岸本佐知子さんの新刊「ひみつのしつもん」の書評が出ていた。翻訳者としてのお名前は知っていたが、エッセイは読んだことがなかった。

私は夕飯の買い物に行く途中でふとその書評を思い出し、図書館に寄ってみることにした。図書館を頻繁に利用するようになったのは会社を辞めてからだ。

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3年ほど前、20年以上働いていた会社をやめて無職になった私は、約30年ぶりに人に養われることになった。「人」とは夫のことだ。30数年前は親元にいて親に養われていた。

切羽詰まった事情もなく20年以上勤めた会社を辞める、しかも50代で。小さな会社でそれなりに責任のある仕事も任せられていた。まわりの人からは不思議がられ、一時は「重病説」も出ていたと聞いた。
会社を辞めた時、私は疲れてはいたが病気ではなかった。しかし会社を辞めて1年ほど経ち、そろそろ再就職しようと就職活動を始めた矢先に、ごく初期の小さなガンが見つかった。まるで辻褄を合わせるかのように。ガンは切れば治るということだった。内定が出かかっていた就職先を辞退し、手術と放射線治療を終わらせた時には、退職から2年近くが経過しようとしていた。

会社を辞める前は、仕事をしない生活は物足りなく感じるだろうと予想していた。日々の課題も、評価されることも、人に感謝されることもない生活。でも会社を辞めた後の毎日に、予想したような物足りなさはなかった。毎日同じ場所に通勤する必要もなく、無意味な会議に出る必要もない。私たち夫婦には子供がなく、夫が会社に行ったあと簡単に家事を済ませればあとは自由だった。趣味に打ち込むこともできるし、ふと思い立てば好きなところに出かけられる。不足も不満もなかった。ただ一点、自分でお金を稼いでいないことを除いては。

お金を稼いでいないことは、辛かった。お金がないことは決定的に不自由だった。実際は夫の稼いだお金で生活していたので、お金がないわけではなかった。でも夫の稼いだお金は夫のお金で、私のお金ではないと感じた。
自分にとっての「仕事」は、すなわちお金を稼ぐことだったのだ。でも同時に、稼げればどんな仕事でもいいわけではないのはわかっていた。自分の生み出す付加価値が、その対価とバランスが取れていないと精神衛生上良くない。会社を辞める前に当然考えなければいけないようなことを、今更考えていることが恥ずかしかった。昔からそうなのだ、私はなんでも体験しないと理解できない。

とりあえず何か始めようと、ガンの治療の合間を縫ってできるような在宅の仕事を探した。何かの記事で見かけたクラウドソーシングに登録し、前職での専門分野の知識を生かして原稿を書く仕事を始めた。いわゆるWEBライターというやつだ。治療が終わった後も原稿書きは続けていたが、いつまでたってもお小遣い程度にしか稼げなかった。数千円の報酬の記事を書くのに、何日もかかっていた。それでも私は就職活動を再開する気持ちにはなれずにいた。ガンを告げられて内々定を辞退した時、自分が心の中のどこかでほっとしていたのに気がついていた。できれば組織に属さずに稼ぎたい。本当に、私はなんでも体験しないと理解できない。

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図書館は中はむっとするほど暖かく、いつもの独特の匂いがする。本を消毒する匂いなのだろうか。資料検索機のところに行って著者名で検索をかける。「ひみつのしつもん」は全て貸出中、予約人数は50人を超えていた。1人が2週間借りたら2年はかかる計算だ。私は予約を入れずに、貸出可能だった岸本さんのエッセイ集「ねにもつタイプ」と「なんらかの事情」を借りることにした。

はじめに読み始めたのは「なんらかの事情」だった。読み始めてすぐに夢中になった。「この人は私じゃないのか」と思うほど感覚が近い部分と、「思ってもみなかった」という部分が交互に現れて、その落差が面白かった。そしてエッセイ全体の手触りのようなものはなんとなく懐かしかった。

同時に私はちょっと打ちのめされていた。細々とではあるが原稿を書く仕事を始めてから、文章を書く仕事に携わる人々の長い長い列の一番末尾にいる自分を意識するようになった。小説でもエッセイでも実用書でも、文章を読むとそんなイメージが頭をかすめるのは、今までにはなかったことだ。
岸本さんの本は圧倒的に面白かった。しかも岸本さんの生活はそれほど自分と違っているようには思えなかった。海外で生活したり、危険な地域を旅したり、珍しい仕事を経験しているというわけではなさそうだ。それなのに、ここまで面白い。私は改めて文章を書くことを仕事にする人々の長い長い列を思い出し、そのはるか前方にいる岸本さんの姿を探した。列は長すぎて、前の方は霞んで見えなかった。本当に前方に岸本さんがいるのか、自分は正しい列に並んでいるのかさえもわからなかった。

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「なんらかの事情」を真ん中あたりまで読み進むと、「みんなの名前」というタイトルの中学高校時代の話が出てきた。

”中学、高校とつながった女子校に通っていた”

私と一緒だ。

”制服がなかったのでみんなでたらめな服を着てきて”

私の学校と同じだ…

”月に一度のバッジ検査があるにはあったが”

えっ?

”地理の授業中にクラスの半数以上が早弁をし”

もしかして?

”女子校なのにトイレが尋常でなく汚く”

これは!?

ここでエッセイには校長先生の名前が出てきて、それは確信に変わった。

PCを開いて「岸本佐知子」を検索した。思った通り、私と同じ中高一貫校の卒業生だった。岸本さんは5歳年上、学年でいうと6年先輩で、岸本さんが卒業した年に私が入学したことになる。なんとなく懐かしい感じの正体はこれだった。驚きながらも、腑に落ちた。
ウィキペディアには「東京世田谷の社宅に育つ」とも書いてあった。私が育ったのも世田谷だった。

「みんなの名前」では中学高校時代のみんなの呼び名が変だったことが書かれていたが、6学年下の私の学年でも全く同じだった。今でも会えば迷いなく当時の名前で呼び合うのも一緒だった。伝統はしっかりと受け継がれている。

さらに読み進むと、小学生の頃の同じ社宅の正子ちゃんという転校生とのエピソードが登場する。学校からの帰り道、どんな本でもこの世にない本はないと主張する正子ちゃんに、ただの棒切れを主人公にした本があるのかと問う岸本さん。それに答える正子ちゃん。

”あたし見たもん。こないだ、経堂駅のそばの本屋さんで”

驚いた。経堂駅は私の育った家の最寄りの駅だった。
当時私の家の周りにはたくさんの社宅があった。おおらかな時代だったので社宅の入り口には堂々と会社名が掲示されていて、みんな会社名でその建物や住んでいる人たちのことを呼んでいた。岸本さんはおそらく、私の家の近くに住んでいたのだ。ちょっとぞくっとする。
そういえば、別の話に出てきた小学校5年で配られる裁縫セットの中身も、私が持っていたものと全く同じだった。水色の三角形のクレヨンみたいなもの、ミニチュアピザカッターもどき、コーデュロイのピンクッション、焦げ茶の皮の指輪…。もしかすると小学校も同じなのかもしれない。

エッセイを楽しみつつも、何か別の「証拠」が出てこないかと慎重に読み進み、「なんらかの事情」を読了する。ここにはそれ以上の証拠はなかった。
私はちょっとドキドキしながら「ねにもつタイプ」のページをめくり始める。(後編に続く)

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