【小説】『もうすぐ、光の玉が爆ぜる』第1話

 耳元でスマホが小刻みにふるえている。短いバイブ音が断続的に聞こえてくる。それは小刻みに揺れて、何の音もしないぽっかりとしたアサの部屋の空気を振動させる。しわくちゃになっている真っ白なベッドのシーツも一緒になって小さく振動している。アサは眠い目をこすって薄いクリーム色の毛布の下から手だけ出した。白いシーツの上で手をもぞもぞと動かしながら、手探りでスマホをつかむ。まだ目は閉じているけれど、薄いカーテンから光が漏れているのが分かった。重たいまぶたの外が白くぼんやりと明るく見える。
「……んん。誰ですかあ……?」
 堪えきれずにあくびをしながら話してしまった。思わず目が潤む。
「……アサが早く起こしてって頼んだんでしょ! 早く起きて! あたしもう外にいるんだから!」
 ユキの声が聞こえてきて、やっと脳の中の霞が晴れてきた。
「ん、うー……待ってて、起きる……」
 使い慣れたスマホを持ちながら思いっきり伸びをした。ベッドが小さく軋む音がする。それから、朝の光で透けているクリーム色のカーテンを開けて窓の下を見る。四階から地上を見ると、小さく赤い自転車の傍でスマホを耳に当てているユキの姿が見えた。アサが手をふると、ユキも気づいたらしい。
「何してんのよ。手をふる暇あったら、パジャマ脱いで制服着て」
「はーい。じゃ、電話切るよう」
 スマホを切って、軽そうなスクールバッグの中に放り投げた。ぽすんと間の抜けた音が響く。もう一度伸びをして、欠伸をした。 
お母さんがアイロンを掛けておいてくれた制服を着込む。この高校に入って、初めて着る夏服。半そでのシャツ。少し硬い。のりが利いている証拠だ。夏用の白い靴下を最後に履いて、部屋の外に出た。
 お母さんやお父さん、それに高三で受験生の兄、直樹(なおき)を起こさないようにキッチンへ行く。食パンを一枚つかんで、そのまま焼かずにバターと真っ赤なイチゴジャムを塗った。
「牛乳、牛乳……あ。消費期限切れてる」
 口にパンをくわえながらやけに明るく光っている冷蔵庫から、牛乳を取り出した。消費期限は今日から三日前だと印字されている。しばらく冷蔵庫の前で牛乳パックとにらめっこをする。
「……ま、いっか」
 すこしぐらい、大丈夫、大丈夫。
残りが少ないから、そのままラッパ飲みをした。カラになった牛乳パックはきちんとゴミ箱に捨てる。
 もぐもぐ口を動かしながら、自分の部屋に戻ってカバンを取った。今日も、軽い。授業で使う教科書やノートはほとんどロッカーに置いてきてある。
 狭い玄関で履きなれたナイキの運動靴を履いた。玄関の横にある棚には、いまだにアサと直樹が仲良く写っている写真が飾ってある。アサが小学校にもまだ入っていないときのものだ。靴を履きながらちらりとそれを見た。口にくわえていたパンをいったん手に持つ。
「行ってきまーす」
 小さな声で誰も起さないように言った。窓がない暗く細い廊下が居間までまっすぐに伸びている。静か過ぎてみんなの寝息まで聞こえてきそうだ。それから、音を立てないようにゆっくりと玄関のドアを開けた。
 暗かった玄関の扉を開くと、眩しくて目がくらんだ。外はいつも通りのセカイだ。マンションがそこらじゅうから生えている、アサが育ったセカイ。朝の夏の光がまだ眩しい。柵の方に近寄って団地の広場を見ると、小さくユキが見えた。
 よっし。行こう。
 何度かとんとんと靴を床に叩いて、いつものように、エレベーターは使わずに階段で一階まで降りる。アサの家は四階だから、そう大した距離じゃない。それでも、夏が近づいてきているせいか、ユキがいる一階まで降りるだけで少し汗が出た。
「おっはよー」
 たったっと軽く走りながら、赤い自転車にもたれているユキにアサは近寄った。ユキはアサを見て、一瞬顔をしかめた。
「何? 何ジャムのっけて食べてんの?」
「いっちごー。甘いよ」
 おいしそうに食べるアサを見て、ユキは嫌そうな顔をした。
「本物のイチゴの方がおいしい」
「えー? ジャムだっておいしいよ」
 カバンをユキの自転車についている前かごに突っ込んだ。ユキのカバンが元々入っていたから、かごの中はいっぱいになった。そのままアサは自転車の後ろに回りこむ。
「ジャムなんてニセモノ。あんな異常に甘いやつ」
「甘いのがいいのに」
 もぐもぐ口を動かしながら、最後のパンのかけらを飲み込んだ。
「食べた?」
 自転車に乗ったユキがふり返った。アサは頷いて、自転車の後ろに立つように片方の足を引っ掛ける。
「準備かんりょー」
「じゃ、行くわよ」
 ユキが勢いよくペダルをこぎ始める。タイミング良くアサの足は地面を蹴って自転車の後ろに立った。
 風が気持ちいい。多分、ユキも目を細めてるはず。
 団地の広場は小さい子供たちが遊ぶためのものだ。だから、規模もすごく小さい。ブランコと滑り台しか置いていなくて、すぐ近くにある自転車置き場と直結している。自転車置き場の横道を突っ切って、学校へと続く道に出た。両脇に白いつつじが植えてある遊歩道を、ユキの赤い自転車が風を引き連れて走る。次の角を右に曲がれば、あの坂道に出る。
「ユキ! 全速力で!」
 ユキの細い肩をつかんでいる手に力がこもる。自転車の鉄の管に引っ掛けている足にも力が入った。
「分かってる!」
 風でユキの声が飛ばされるように聞こえた。ユキが座席から腰を浮かせて、立ち乗りをした状態で勢いよく自転車をこいで行く。ユキの長くて細い黒髪が、腕の辺りを撫でてくすぐったい。
 どんどんスピードを上げて、ユキとアサを乗っけた赤い自転車は細い路地を右に曲がった。そのとたん、がくんと自転車が下がる。
 まるで小さな子どもが初めてメリーゴーランドに乗ったような瞳をしながら、アサは心底楽しくてしょうがないような叫び声を上げる。ユキもアサに合わせて小さく叫んだ。長い坂道を赤い自転車は一気に下っていく。朝一のこの時間は車なんて通らない。アサとユキはこの自転車で坂道を思いっきり降りたいだけに、毎朝一時間も早く学校に登校していた。
 周りが飛ぶように視界に入っては見えなくなる。太もも辺りのスカートが風に引っ張られるようにはためいて、首に下がっているリボンが激しく吹かれる。夏の朝の風が気持ちよく二人の間を駆けていく。ユキとアサの心拍数は爽快感にこれ以上ないほど波打ち始めた。楽しい。楽しいとしか感じない。目の前で光の玉がぱんぱんと爆ぜているみたいだ。アサは思わずユキの首辺りに両腕を回した。もちろん、怖いからじゃない。これ以上ないほど楽しいと感じる気持ちの渦に飲み込まれそうになったからだ。  
飲み込まれるなら、ユキも一緒じゃないといや。
 ユキもペダルから両足を離している。赤い自転車のタイヤは信じられないほど早く回転していく。ただひたすらスピードを増していく自転車に乗っかっていても、アサが後ろにいる温もりを感じているから楽しくなれる。もちろん、ブレーキなんて触らない。そんなことしたら、アサに怒られてしまう。
「きゃああー! あははっ」
 アサがユキの後ろで楽しそうの声を上げた。ユキもアサの声に合わせて一緒に叫ぶ。坂道の両脇に立っている家の人たちからは、きっと毎朝早くに大声で走り抜ける自転車は快く思われていないだろう。
 それでも、アサとユキにはそんなことは、大して重要なことじゃない。
「ユキ、楽しい?」
 アサがユキの方を後ろから覗くように、風の音に負けないように大きな声で聞いた。
「アサは?」
 ユキも大声で返事を返す。
「あったりまえ! ユキもでしょ?」
「うん。まあまあねっ」
 二人を乗せた自転車は、そのまま速度を落とすことなく坂道を下った。そして、一気に上り道も登り始める。
 三浦(みうら)安沙奈(あさな)、水川(みずかわ)有(ゆう)姫(き)、ともに十六歳の高校生。今年で、一緒に過ごして十六回目の夏が来る。
アサが空を見上げると、入道雲になりかけのような巨大な雲が浮かんでいた。今日も気持ちのいい青い空。もうすぐ、また夏が来る。今年も、ユキと一緒の夏だ。
 青空に目を細めているのは、アサもユキも同じだった。

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