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平安貴族は、お風呂に入らなかった!?

ナポレオンの枕元にブルーチーズをかざすと「oh! ジョセフィーヌ~!」と言ったとか、ともかくフランスでは体臭を消す為に香水が発達したというのは有名な話。

仏教では身体の清浄を保つことが大事

僧侶が持つべきものとして比丘十八物(びくじゅうはちぶつ)というものがあります。その一番最初に挙げられているのが楊枝。
歯を大事にする為です。2番目に挙げられているのが澡豆(そうず)といって大豆。大豆はいざという時には食料にもなるし、植えれば豆を収穫できます。

そして大豆にはサポニンが含まれていますので、粉にして泡立てれば石鹸になります。つまり僧侶にとって、まずは自分の身体の清浄を保つ事が大事だとされているのでしょう。

湯屋の皇后と呼ばれる光明皇后は1000人施浴を行いました。また行基はあちこちで病気に悩む人々の為に温泉地を開きました。

631年に舒明天皇が有馬に行幸し、647年には孝徳天皇も行幸した有馬温泉ですが701年に京都北部で発生した大宝地震によって崩壊したと思うのです。その後の記録がない為です。

行基が六甲山の山中で動けなくなっている乞食に出会い、乞食に魚を食べさしたところ、乞食はさらに身体が痒いから舐めて欲しいと言ったそうです。

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行基が乞食の身体を舐めた所から金色に輝き、最後は薬師如来となったのです。そして「病気に悩む人々の為に有馬温泉を再興しろ」と言われて、行基が有馬温泉を復興したのが723年となります。

この話は「魚屋(ととや)の行基」として有馬では有名な話です。温泉寺の絵巻にも描かれています。(温泉寺の御祖師庵で見る事が出来ます)

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記録では行基が有馬温泉を開いて数十年は栄えたといいます。

歴史のある有馬温泉の空白期間

いつの時代でも、誰々が来たという記録があるという事が歴史が有るという事ですが、行基の温泉地再興の記述以後、平安時代の997年に和泉式部が来るまでの約200年間は、訪れた人の記録がありません。

なぜでしょうか?

調べてみると735年から737年にかけて「あかもがさ」(天然痘)が流行していたというのです。当時、日本の総人口の25~35%に当たる100万~150万人が感染して死亡したとあります。

平安末期に書かれた歴史書によると、「あかもがさ」は九州で発生し、朝廷が新(しら)羅(ぎ)、もしくは唐に派遣した使節が持ち帰ったという説が有力とされています。

そして737年6月に朝廷から地方に、ある通達が出されています。なんでも、病が癒えて20日を経ても水浴びは控え、風雨にさらされてもいけないとか。だから有馬温泉も利用されなかったのでしょうか?

平安京は洛陽や長安の都を模して、きっちりとした都市計画で造られましたが、奈良時代にあったはずのトイレがありませんでした。そのため、街はふん尿であふれて不潔だったそうです。

ただし、蒸し風呂はあり、庶民は葉っぱを使って垢(あか)を落としていました。貴族の屋敷にも「風呂殿」と呼ばれる蒸し風呂があり、布を敷いてサウナのようにして汗を落としました。その布が「風呂敷」の語源になったといいます。

それでもこの時代は貴族社会。物事を占いで決めた時代で、縁起の悪い日に風呂に入ると洗った部分から悪霊が入って体調を崩し、命取りになると考えられていました。そのため、貴族たちはほとんど風呂に入ることをしなかったそうです。

そんなこともあって有馬温泉に来ていなかったのかもしれません。
それとも単純に、平安貴族は温泉が嫌いだったのかも…。

自然災害が多かったから?

その後、800年代は自然災害が日本全域で多発しました。
日本の地震の歴史を調べると、この期間に貞観大地震を初め巨大地震が集中しています。

阿蘇山が噴火したり、富士山の樹海ができたのもこの時代です。

太平洋プレートは年間で約10センチずつ日本列島に潜り込んでいます。フィリピン海プレートは年間に3・5センチくらいです。二つのプレートが干渉して日本全域で大地震が起こり、大噴火が起こったのです。

当然、政治や経済が混乱しましたのは想像できます。

だから、とてもじゃないが、ゆっくり有馬温泉に行こうかという気にはなれなかったとも考えられます。

コロナ感染症により、現在の社会は混乱していますが、近々に有馬温泉のワクチン接種も始まります。落ち着いたら、ぜひ有馬にお越しください。

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